松沢呉一のビバノン・ライフ

戦時のカニバリズム-普仏戦争でパリは飢餓状態に-[ビバノン循環湯 282] (松沢呉一)-2,345文字-

「スナイパー」の連載です。

 

 

 

誰か知らないリップ氏の話

 

vivanon_sentence文藝春秋社(今はついていないが、以前は「社」がついていた)が戦前出していた「話」という雑誌があります。昭和8年に創刊になっており、「文藝春秋」よりもっと俗な読物雑誌です。

大陸で戦争が始まると、戦争一色になってしまうため、私としては興味がなくなるのですが、太平洋戦争直前まで出ていたようです。

遊廓の話やカフェーの話もよく出てくるので、エロ産業資料としてコツコツ読んでいるのですが、この昭和八年七月号(通巻四号)に面白い記事が出ていました。

この号は、「各人各話」と題してして、内田良平、榎本健一、長谷川伸、直木三十五、巖谷小波、徳富猪一郎、岡本綺堂、岡田嘉子などなど、政治家、軍人、小説家、役者など、当時の名士たち百数十人がテーマごとにエッセイを書いています。さすが文藝春秋社の雑誌だけあって、すごいメンツです。

この号でも色っぽい話は出ているのですが、それよりも私が気に入ったのは「巴里怪談 人肉供餐」という1ページ半ほどの無署名コラムです。これは文字数調節のためのものなのか、メインのエッセイとはなんの関係もなく掲載されています。

元ネタは「リップ氏」なる人物が書いているものらしいのですが、このリップ氏がどこの誰かもわからず、なんという本かもわからず。ひどい記事ではあります。

※「話」の書影は取り上げているのとは別の号です。

 

 

食料不足の中で肉を調達してくる女中

 

vivanon_sentence一八七〇年に勃発した普仏戦争(プロイセン対フランス)で、フランス軍は劣勢に立ち、長期にわたるプロイセンの包囲によって、パリは籠城状態が続き、食糧は底をついていました。人々はやせ細り、雀さえも痩せて空を飛べなくなっていたと言われるほど。牛馬はもちろんのこと、犬や猫、鼠、カナリアまでが食糧とされてました。

たまたまパリに来ていたインドの苦行僧が、断食道場を開いたところ、食糧がなくても生きられるというので大繁盛して、ヒンドゥー教徒に改宗した者が数千人に達し、僧侶は一躍断食成金になり、妻をめとることに。結婚式は盛大に開かれて、金に飽かして高価な食糧が集められ、インド人の僧侶は有頂天になって食べ続けたために食い過ぎで死亡。

これはさすがに笑い話でしょう。しかし、こんな笑い話が出るほどに食料事情が悪化していたわけです。

こんなパリの中で、クーランボアという老夫妻だけは食糧に不自由しませんでした。

クーランボア家には忠実なマリー・メロという女中がいて、夫婦は牛肉を食べたいと言うと、彼女がどこからか肉を調達してくるのです。マリーがどこからそんな牛肉を手に入れるのか、クーランボア夫妻も不審に思ってはいたのですが、下手に詮索して、せっかくの牛肉が手に入らなくなるのは避けたい。なにしろマリーはその代金さえ請求しないのです。

Lucas Cranach the Elder「The Werewolf or the Cannibal」

 

 

マリーはどこから肉を調達していたのか

 

vivanon_sentenceパリ陥落が迫って、飢餓状態はピークに達し、町中で餓死者が出て、路上にも人が倒れているような中で、艶々とした肌をしたクーランボア夫妻はひときわ目立ちました。ところが、決してマリーはその肉には手をつけず、他のパリ市民同様にガリガリにやせ衰えていくのでした。

一八七一年に入り、プロイセン軍はパリに砲撃開始、いよいよパリ陥落を間近に控え、クーランボア夫妻は最後の晩餐をとることにして、マリーに料理を命じました。

ところが、マリーは台所に籠もったまま、なかなか出てきません。いったいどんな手の込んだ料理を作っているのだろうと期待して、台所にクーランボア夫婦は台所に入ったのですが、マリーはいません。

 

 

next_vivanon

(残り 855文字/全文: 2442文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ