松沢呉一のビバノン・ライフ

刑法175条・姦通罪・売防法—「セックスワーカーのためのアドボケーター養成講座」のご報告 3-(松沢呉一)-2,842文字-

女言葉と売防法—「セックスワーカーのためのアドボケーター養成講座」のご報告 2」の続きです。

 

 

 

個人主義の欠落

 

vivanon_sentence前回書いたように、明治以降、「近代的家庭」と「近代的男女の分業」が日本でも浸透していき、それに伴って望ましき男と女の振る舞いが規定されていくのですが、ここでうまく取り入れられなかったのが「個人主義」でした。日本における近代のテーマのひとつが「個人の確立」ですが、これが十分に発達、浸透する機会を得ることができなかったのです。

それ以前の方が個人に重きがあったのではないかと見られる点もあるのですが、それも資本主義の発達とともに消えていきます。

このことが今に至るまで日本の近代を規定しており、集団の都合を個人の上位に位置づけるという習性になっています。そうしなければならないことがあるにしても、そこに抵抗がまったくなく、結果、個人をあっさり抑圧する。

国家という単位を重んじる人たちだけでなく、リベラルと言われる層でも、組織の都合や思想的理想を個人の上位に掲げることに抵抗がなく、この層でさえもしばしば道徳や秩序を重んじます。全体主義に転じやすい性質を日本のリベラリズムは内包しています。つうか、日本人総体が内包しています。

フェミニズムも同様。フェミニズムには「女個人の選択肢を拡大する」「女の自己決定を実現する」という側面がほとんど常に根底にはあるはずなのですが、日本に入ってくると、その部分は捨象されて、「好ましき女という集団」の権益を確保するものになり、良妻賢母思想となって女の役割を強化するものと化し、個人主義に基づく伊藤野枝のような思想は無視されていきます。あばずれの女たちの存在はもちろん無視。

この辺については「共感できるフェミニスト・共感できないフェミニスト」シリーズで論じた通り。

※この写真も東大です。

 

 

法と道徳

 

vivanon_sentenceこの講座における私のテーマは「法」だったのですが、「ビバノン」にも出した「近代日本の売買春に関する法令集」はあんまり使ってません。こういった具体的なものより、法や道徳をどう考えるかという話が中心でした。

個人を尊重する発想の欠落は法にも表れています。

憲法はもちろんのこと、姦通罪の撤廃も個人の合意による婚姻も男女の普通選挙も実現したのは敗戦がきっかけ。それまでは個人の人権に基づいた法を作れていなかったわけです。この点においてはGHQ万歳と言うしかない。「この点においては」でしかないとしても。

では、戦後は平等、人権という観念が浸透しきっているかと言えば、はなはだ疑問であり、しばしば人権より国家、道徳、秩序が上位に置かれるのがこの国です。

たとえば表現の自由は、国家に対抗する武器の保証であり、個人の自由のひとつでもあります。これ自体が人権です。

ポルノ表現の自由を着々と欧米が実現してもうじき半世紀にならんとするのに、この国では一向に刑法175条はなくならず、むしろ規制する動きの方が強まってきているようにも感じます。

これも社会秩序や道徳を個人や国民の自由の上位に置く発想がとことん染み付いているからだろうと見ています。そこに疑問のない自称リベラルがいかに多いか。んなもん、リベラルじゃないべさ。

また、売防法もその典型です。売防法は廃止すべきです。それに抵抗感を抱くのは道徳に基づいた個人の感覚でしかない。道徳を私は全否定するつもりはないのですが、法の根拠、あるいは目的が道徳であってはならない。

※講座が行われたのは新しい建物だったので、そんなに面白くない。

 

 

姦通罪を復活すべきか?

 

vivanon_sentenceもし売春に対する否定的思いを法にし、それを処罰するのが適切であるなら、配偶者の不倫を許せない人は、姦通罪として復活させるしかないでしょう。そんなことを主張するのは狂信的宗教家くらい。それ以外の人たちは、なぜ姦通罪を復活させようと思わないで済んでいるのか、よーく考えてみましょう。

 

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