松沢呉一のビバノン・ライフ

セックスワーカーは偉い人—「セックスワーカーのためのアドボケーター養成講座」のご報告 5(最終回)-(松沢呉一)-3,171文字-

刑事と民事の違い・道徳と法の違い—「セックスワーカーのためのアドボケーター養成講座」のご報告 4」の続きです。これでおしまい。

 

 

 

 「女の分断」「フェミニズムの分断」というフレーズに要注意

 

vivanon_sentence初日の最後に、各講義で答えなかった質問に答えるコーナーがあって、神戸大の青山薫教授への質問として、「フェミニズムが分断されることをどう考えたらいいか」というものがありました。

青山さんは質問に共感しつつ、差し障りがない答えをしていましたが、私が答えるとしたら、こうなります。ご参考までに。

もう一度フェミニズムの歴史をとらえなおし、この国フェミニズムの主流派は、個人主義に基づくフェミニストの主張を切り捨て赤線従業婦組合を潰したことを認識すべし。売防法は家庭で主婦をやる女のために、売春をする女を罰するという法律であったことを知るべし。女を分断したのは誰だったのか。主流派のフェミニズムこそが、これまで自分たちが考える女のみを女として、それ以外と分断してきたのである。それに対する批判が出てきたことに対して、分断を理由に再度封殺することは断じて許されず、それこそが差別的分断を固定することである。

この質問者は封殺しようとこの質問をしてきたのではなくて、純粋に困惑をしているのでしょうけど、よーく考えてみましょう。

フェミニズムに対する批判への反論で、「フェミニズムは一枚岩ではない」というものがあります。その通りです。「フェミニズムのある部分、ある個人をとらえてフェミニズム全体を否定することはできない」ということです。

セックスワークを肯定するフェミニストもいれば、肯定しないフェミニストもいます。現実にさまざまな人たちがいるのだから、ひとまとまりで語り切ることはできません。

セックスワークを否定したがるフェミニストがいたら、それをもってフェミニスト総体を批判するのではなく、その個人を批判し、セックスワークを肯定する立場のフェミニストをサポートすべきです。日本には少ないわけですけど、存在しないわけではない。

当然、テーマによっては対立するのは当たり前なのに、一枚岩であるかのような幻想をなお抱いて守ろうとする人がよくいます。たとえば、市川房枝や奥むめおら、戦争に積極的に加担した婦人運動家を全肯定できるのでしょうか。彼女らがやったことを批判することは、「フェミニズムの分断である」として否定されるべきでしょうか。実際にそういう人たちがいるらしいですけどね。

あるいは矯風会が日露戦争以降、一貫して戦争に積極的に加担し続けたことを批判するのは「女の分断」か? 平塚らいてう伊藤野枝が矯風会を批判したのは「女の分断」だったか? 安倍昭恵を批判し、稲田朋美を批判することは「女の分断」か? これが女の分断であるなら、もっともっと分断すればいいのです。

※三四郎池。前に出した写真と光の具合が違うのは時間帯が違うためです。何度行っているんだ。

 

 

その内実はしばしば異論の封殺である

 

vivanon_sentenceこれもまた「私がどう考えるか」ではなく、「私」の上にフェミニズムという集団の事情を上位に置く発想じゃなかろうか。しかも、そのフェミニズムは幻想です。ありもしないフェミニズムの幻想で、正しさや解決を求めることを放棄したり、意思表示をすることをためらったりすることはもうやめましょう。

 

 

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