松沢呉一のビバノン・ライフ

新宿大ガード脇で一瞬の再会—悲しみのおっぱい 上-[ビバノン循環湯 314](松沢呉一) -4,002文字-

2006年くらいにメルマガ「マッツ・ザ・ワールド」に書いたもの。

 

 

 

一瞬のすれ違い

 

vivanon_sentence人の顔を忘れさせたら右に出る者がいない私だ。

一ヶ月ほど前のこと。深夜十二時過ぎ、歌舞伎町から新宿駅に向かっていた。この時は歌舞伎町の西武新宿線側から駅に向かったため、大ガードのところから西口に出て、パチンコ屋の脇にある交差点で信号待ちをしていた。

そこに自転車に乗った若い女が通りかかった。彼女も車道で信号待ちをしている。あちらは小滝橋通りを突っ切るのだが、そちらの信号が赤になってしまったところだ。

チラリと見て、「オレのタイプだな」と思った。そのすぐあとで、どこかで見たような気がしてきた。もう一度見たのだが、どこかで見たことは間違いないとして、誰だったのかどうしても思い出せない。

顔は見たことがあるのに、誰なのか思い出せない気持ちの悪さと格闘していたところで、信号が青になった。私は歩き始めた。

反対側に渡り終えてからやっと思い出した。振り返ったが、すでに彼女の姿は見えなくなっていた。思い出すのが遅すぎた。

彼女は風俗嬢である。少なくとも私が知っている彼女は風俗嬢だった。彼女も私も攻め好きで、いいバトルのできる選手だ。体の相性がいいのである。性格の相性もよくて、互いにケラケラと笑いながらダベっていると時を忘れる。

それが気に入って、たびたび遊びに行っていた。彼女は私を上客だと思ってくれていたようで、電話もメールもよくくれていて、旅行に行くと土産を買ってきてくれた。バリコーヒーのような安くてありがちなものだったが、それでも嬉しい。

「他のお客さんにもちゃんと買ってきたか?」

「買ってこないよ。旅行に行っていたことも言ってないし。私、そんなに仕事熱心じゃないからね」

本当かどうかは知らないが、こう言われて悪い気はしない。

彼女と知り合った店は池袋にあったのだが、そこを辞めたあとも連絡をくれて、どこの店がいいのか相談に乗ったりもした。新しく働き出した店も教えてくれ、そこにも遊びに行ったものだ。その店は秋葉原にあった。他に用事のない街だったので、行く頻度は落ちたけれど。

Gustave Courbet「Nude with Flowering Branch」

 

 

名前は忘れた

 

vivanon_sentenceかれこれ二年くらい風俗嬢と客としてのつきあいがあったと思うのだが、名前は思い出せない。店を移動したために名前が変わっていて、どちらの名前も思い出せない。顔とともに名前も忘れるのが得意である。調べればわかるのだが、いまさらわかったところでどうになるものでもあるまい。

たしか彼女は本名までは教えてくれていなかったと思う。教えてくれていたとしても、どうせ忘れる。

彼女は埼玉の実家に住んでいた。埼玉から新宿まで自転車で通うとは思えないので、一人暮らしを始めたのだろう。

歌舞伎町に自転車で通う風俗嬢やキャバ嬢は珍しくない。南新宿や北新宿あたりには手頃なマンションが多数あって、自転車で十分もかかるまい。

今も彼女は風俗や水商売をやっているのかもしれない。たしか彼女は酒は飲めなかったはず。今も性風俗で働いているのかとも思うのだが、そのわりに自転車の彼女は化粧をちゃんとしていた。そのあとデートがあるならともかく、仕事を終えたあとで化粧を直す風俗嬢はそれほどいない。

彼女はヘルスの前は事務の仕事をやっていたはずで、そっちに戻った可能性もあるのだが、あんな時間にしっかり化粧をして帰宅するのもおかしな話だし、そもそも事務仕事のメイクや服装ではなかった。クラブにでも行っていたような雰囲気だ。

それとも仕事の帰りではなく、これから彼氏の家にでも行くところだろうか。

自転車に乗っている時に、信号待ちの人たちの顔をいちいち見ないため、彼女はこちらには気づいていなかったと思う。彼女は目が悪くてコンタクトだったから、見たところでわからなかっただろう。よく茶色のカラコンを入れていただけで、度は入ってなかったんだっけな。忘れた。

しかし、もし私が声をかけていたら、たぶんあっちは思い出したはずだ。女子は顔の記憶力がいいものだ。誰だったかわからずに声をかけられなかったがために、急に懐かしくなり、追って後悔の念も起きてきた。もうちょっと早く思い出していれば。

Paolo Veronese「Mars and Venus United by Love」

 

 

おっぱいを大きくした

 

vivanon_sentence私は新宿駅に向かう途中、ずっと彼女との記憶を甦らせた。

彼女に最後に会ったのは、風俗ライターじゃなくなる一年くらい前のことだから、それからもう二年くらいになるのだろう。

顔や名前は忘れても、彼女については忘れられない思い出がある。彼女はいい形のおっぱいをしていた。私はそのおっぱいも気に入っていた。私は気づいていなかったのだが、それが彼女の大きな悩みだった。

 

 

next_vivanon

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