松沢呉一のビバノン・ライフ

高群逸枝が見抜いた「売春婦への同情」の偽善—女言葉の一世紀 32-(松沢呉一) -3,089文字-

高群逸枝著『黒い女』から「守護神よ」—女言葉の一世紀 31」の続きです。

 

 

 

「守護神よ」に描かれているのは矯風会か?

 

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「守護神よ」で、売春をする女が主張する「猫も芋虫も自由であり、平等である」というのは、どんなに軽蔑され、社会から軽んじられる存在でも人権はあるという意味であり、そのことを認識できなくしているのは美醜真偽尊卑という観念です。これを作り出しているのは支配層の都合による価値観であり、そこからの解放を彼女は求めました。それを主張するだけでなく、自ら売春をすることで実践をしたわけです。

「予」は、その彼女の意図をまったく理解せず、なお高見から同情という名の蔑視をしたまま救済をしようとし、その救済は結婚であると信じます。それに対して、彼女はあっさり答えを出しています。「おめえは人の話をなんも聞いてねえべ」(意訳)と。

ここでの「守護神」は信仰の象徴であって、対象はなんだっていいのでしょう。道徳でもいい。

支配層の道具である美醜真偽尊卑という観念への反逆であることを理解できない「予」は、女の主張を自己の観念の中に押し込んで、「驚くべき性欲」か「貧乏」と解釈をします。憐れみの対象としたわけです。

これは自己が批判の対象であることから目を逸らし、自己のすがる信仰の維持を求め続けることです。

それでもセックスはしたいですから、やることをやって、今度はその贖罪意識から、彼女を救済しようとします。

制度を否定するために売春を選び取った彼女に対して、結婚という制度で救済をしようとする滑稽さ。「おまえのような人間が敵だ」と宣言しているのに、気づけない鈍感さ。

汚れた自分を他者の救済によって浄化し、罪を贖おうとする「予」は、矯風会の矢島楫子にきれいに重なります。てっきり、それを踏まえているのかも思ったのですが、この「守護神よ」を含めて、いくつかの作品は、『私の生活と芸術』(大正十一年)に先に収録されています。矢島楫子の醜聞が広く知られるようになったのは、大正十四年(1925)に亡くなってからですから、それはないか。

矢島楫子に限らず、こういう人はどの時代でもゴロゴロいるってことですし、醜聞が知られるようになる以前から、その偽善的売春否定を見抜いていたのかとも想像します。今もいるように、客になってさんざん楽しみながらも、「いつまでもこんなことをしているんじゃない」と説教する客は当時もおそらくいて、それを踏まえただけかもしれないですが、結婚が贖罪になり、相手の救済になると信じている点、結局のところ頼るのは神である点、セックスそのものを嫌悪している点は、矢島楫子の裏の顔を知らずとも、矯風会や救世軍を踏まえていたのではないか。

「Rain God Mask」

 

 

信じる私は信じていない者より優れているという信仰

 

vivanon_sentence自己の欲望を直視できず、他者を抑圧する欺瞞」に書いたように、性行動や性表現を規制したがる人たち、規制まで至らずとも、他者の性行動や性表現を否定したがる人の中に、なぜか問題のある性行動をした過去のある人たちや、今現在の問題が浮上する人たちがいます。

あれを書いたのは去年の十二月ですが、その後もそういう人間の薄汚い行為が発覚してます。表には出てないですけど、驚きますよ。

北原みのりもそうか。わいせつ犯として逮捕され、刑法175条に異議を唱えることもなく罪を認めておいて、性表現に口出しできる資格がなおあると思えているのが不思議でならない。

「自分がやっていたことは間違っていた、だから世の中の人も私のような間違ったことをしてはならない」という更正した犯罪者の社会奉仕のつもりなのでしょうけど、こういう人たちの行動原理も、「守護神よ」は見えやすくしてくれていようかと思います。

 

 

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