松沢呉一のビバノン・ライフ

エレン・ケイが口説き文句に—女言葉の一世紀 37-(松沢呉一) -2,990文字-

蔑まされた女たちは革命家に—女言葉の一世紀 36」の続きです

 

 

工場では連帯が可能

 

vivanon_sentence学歴なし、教養なし、技能なしの田舎娘が都会に出てきても、そう簡単に仕事は見つかられない。カフェーの女給は脚光を浴びる職業ですから、気後れする。田舎娘丸出しの言葉遣いでは敬遠もされましょうし、カフェーの女給には女学校卒も少なくなかったので、その点でも学のない田舎娘は気後れします。客と会話をしようにも町の話題についていけないでしょう。

周旋所に行って紹介されるのは、だいたい女中の類い。待合や旅館、料理屋の類いです。こうなるとなかなか横にはつながれない。仲間がいない中で孤立して上を目指すしかない。インターネットもないですし。

カフェーでもストライキは起きてましたが、これは女給にはインテリが多かったためでしょう。また、客からの情報も入ってきて、客がサポートをすることもあったかと思います。女中たちではこれもできない。

その点、工場で働く女工たちは二十四時間生活をともにし、横につながれるので、闘いに転じることが可能でした。

現実に、この時代は、各地の工場で労働争議が起きていたわけで、誰もが虐げられていた以上、工場は活動家たちを育む格好の揺籃になっていて、資本家は国家権力や暴力団と結託をして、これらを潰していきます。

Alexander Gardner「Castle Thunder, ex-tobacco factory, Petersburg」

 

 

矯風会が工場に目を向けなかった理由

 

vivanon_sentenceというのが「田舎から来た女工達」です。今まで「ビバノンライフ」を読んできた方はおわかりのように、私は戦前の女工ものを読むのが好きです。

なぜこうも惹かれるのかと言えば、「田舎から来た女工達」のように、「社会のもっとも下層で虐げられた女たちが蜂起する」という展開にカタルシスがあったりもするためだったりするわけですが、同時に「今の我々の視点ではとらえきれない現実」に戸惑う点に惹かれたりします。女工が工場主や監督に夜呼ばれてセックスをすることを本人たちは喜んでいたという現実。妊娠しようものなら親までが喜んだ現実。当時書かれていたものを丹念に読んでいかないと見えない現実です。

また、社会の構造がここに集約されているという点でも女工ものは貴重です。

この構造を見据えると、矯風会はなぜ廃娼運動に力を入れたのかも鮮明になります。「守護神よ」がわかりやすく説明してくれているように、支配層の道徳に反する存在を許すわけにはいかなかったからです。まして、その破壊を自覚的にやろうとする女なんて許せるわけがない。

だから、遊廓を批判しても、その労働環境を向上させるための組合活動を組織させるなんてことは決してやらず、戦後、赤線従業婦組合ができると敵視をして潰しました。これが彼奴らの本質です。

建前上は「人権」を掲げたとしても、それは噓の看板であり、どれだけ工場で人権が侵害されていようとも目を向けませんでした。だから、宮本百合子はそれを批判しました。ただの道徳運動だったことは伊藤野枝も強く批判し、平塚らいてうも自分らのような婦人運動とは峻別して罵倒と言っていいくらいに批判しました。

Lewis Hine「Adolescent Girl, a Spinner, in a Carolina Cotton Mill」 紡績工場の少女。これもルイス・ハインの作品。Wikipediaより。

 

 

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