松沢呉一のビバノン・ライフ

フランスと日本の違い—政治家の下半身を叩くのはほどほどに 上-(松沢呉一)-2,232文字-

なぜ他者の性を否定しないではいられないのか」シリーズや「刑事と民事の違い・道徳と法の違い—「セックスワーカーのためのアドボケーター養成講座」のご報告 4」を併せて読むとわかりやすいかもしれない。

 

 

フランスの事情

 

vivanon_sentence政治家の下半身スキャンダルが問題にならない国としてよくフランスが挙げられます。

フランスでも、政治家の不倫をイエローペーパーが報じることがあるのですが、国民は「へえ」でおしまい。敵対する政党もそんなことをいちいち取り上げず、それで責任をとるなんてことはない。こういうところは真似したい。

政治家の不倫が問題にならないフランスと、ここぞとばかりにメディアも国民も叩く日本とは何がどう違うのかと言えば、まずは結婚についての考え方が違う。結婚は制度であって、恋愛はまた別。結婚しても、歳をとっても、恋愛を楽しむのが当たり前で、結婚前に限定して楽しむものではない。

また、道徳のありようが違うのでしょうし、フランスでは個人領域に他者が踏み込まないって考えが浸透しているってことかと思います。個人主義ってことです。

不倫は婚姻の民事的規定に反しているだけでなく、道徳に反しているかもしれない。しかし、それをもって他人のプライベートの行動に介入しないのがフランス。介入すると、自分も介入されてしまって、人生が楽しくなくなります。

※棚沢直子・草野いづみ著『フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか?』は前にも「ビバノン」で取り上げたことがあったと思ったのですが、見当たらない。こういうもんを読んで、日本で当たり前になされていることが当たり前ではないことをまずは実感した方がよいかと思います。性行動・性表現の規制をしたがるクソどもはすぐに「海外では〜」と虚構の海外を持ち出すくせに、現実の海外はちいとも真似をしようとしないからなあ。

 

 

法と道徳の違い

 

vivanon_sentenceでは、法と道徳はどう違うのか。いろんな考え方がありましょうが、私なりの整理は、「法はその社会を構成する誰もが従う義務があり、それに反した場合、刑事であれば罰せられる」というもの。

対して道徳は「誰もがつねに実行できるわけではないことを前提に、実現できればいい理想や生きていくための指針として掲げられるものであり、それに反したとしても第三者は責任を問えない」ということになろうかと思います。

法と道徳はその質においてまったくの別ものです。道徳は実行できるわけではないものに過ぎないのですから、実行しなくてもいいんです。道徳が約束事になっている場合は、その約束事を共有する人たちの間では、それに反した人々を批判できるとして、それ以外の人は批判できない。

たとえば宗教団体で「毎日祈りを捧げなければならない」というお約束になっていれば、その信徒の間では祈りを怠った者に制裁を加えられるとして、そんなもんを信じていない人に強いることはできないようなものです。

道徳がそういうものに過ぎなくてもあった方がいいものであり、あった方が時に社会生活はうまくいく。それに従った方がいいと思ったら、自分で実践すればいい。同じ考え方をする人が尊敬してくれるでしょうし、真似をするでしょう。話はそれで終り。

※松下良平著『道徳教育はホントに道徳的か』は読もうと思いつつ読んでないですが、この人が書いた論文を以前ネットで読んで、大いに考えが進みました。

 

 

教育上の道徳はフィクションである

 

vivanon_sentence道徳が教科化され、評価の対象になることに反対の人たちは多いと思います。私も反対です。

しかし、多くの人たちが「道徳は答えがひとつではないのだから、評価できるようなものではない」「答えを出すことよりも、考えることが大事」と言いたがるのは間違いだと私は思ってます。

 

 

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