女学生(JG)はコギャルであった—女言葉の一世紀 42-(松沢呉一) -3,197文字-
「売春する女学生たち—女言葉の一世紀 41」の続きです。
大正女学生コギャル説
「女学生はコギャルであった」と見なすべき根拠は、当時の女学生批判の文章を見ると多数見つかります。コギャルとは書いてないけれど。
澤田順次郎著『男の観た女』(大正十年)掲載「女学生」より。
今其二三を言へば、即ち学生の質素倹約は特に必要な事柄である、一般人も必要だが、夫れ以上必要である、然るに彼等は常の通学に袖長の絹物を着込み、一寸幾十銭と云ふ絹リボンを、一ヶ月に四五本も取替へ、ピンよ櫛よと、頭の造作に無益の費用を投ずる事、実に夥しいのである。
然かも其頭髪の格好は如何、牛の糞を載せたと言ってよいか、鍋を被ったと称するが適当か、殆ど命名に苦しむ結び方である。真ん中から別けるのもあり、横から捲き上げるもあり、後ろから前に来るのもあり、実に千態万様である、之れが為めに、如何に彼れが脳の発達を妨げるであろう、彼の格好を拵へる時間丈けでも実に容易ではあるまい。
其上に香水、白粉、紅、油、其外何んとか彼とか異名のものを沢山に塗り附けて而かも其高価のものを競はんとする、誇らんとするのである、尚ほ少しく上気(のぼせ)て来ると、牛乳で顔まで洗ふやうになる。
是等は果して修学上に必要なものであらうか否や、学生は男女を問はず、学習に必要な丈けの事をして居れば足りるのである、夫れ以外の事をする者を贅沢と称した所で、別に罵詈でも毒舌でも悪口でもあるまいと思ふ。
成程女子と云ふものは、其身嗜みとして、或る程度のでは化粧の必要もある、又着飾る事も必要である、併し之れは程度問題のものである、又境遇に依るものである、即ち学生時代には、垢着かぬものであれば、木綿着物で十分である、頭髪なども飾りに飾る必要は必ずないのである、夫れよりも此費用を以て、学用品でも買ひ、其時間を以て一字でも多く学んだ方が、真に学生たるの目的に適ふではあるまいか。
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