松沢呉一のビバノン・ライフ

写真で見る明治から昭和初期の女学生の服装 上—女言葉の一世紀 48-(松沢呉一) -2,486文字-

坂田山心中が話題になった背景—女言葉の一世紀 47」の続きです。

 

 

 

女学生の制服

 

vivanon_sentence女学生、女学校についてはまだまだ続きます。これ以降は、女学校はどんな人たちによって、どんな思想に基づいて運営さていたのかを踏まえ、明治末期から巻き起こってきた「新しい女」の潮流とどういう関係にあったのか、戦時体制に向けてどういう役割を果たし、そこにおいて言葉はどう扱われたのかを論じていきますが、ここまで大急ぎで更新してきたため、あとで気づいたことがいろいろありまして、ここまでの「女学生の実態」という範囲の中での補足を何回かやっておきます。

まずは待合に行ったり、売春したり、派手な格好をしたりするようなお転婆系、ハイカラ系女学生の話ではない一般の女学生の話で、今回は女学生の服装について。

女学生(JG)はコギャルであった—女言葉の一世紀 42」に女学生の制服が決まってくるのは大正末期と書きましたが、あるところから、「これしか認めない」と特定の制服が指定されたのではなくて、明治から昭和にかけて、なだらかに服装の制限が定められていき、我々が女子中学・高校の制服としてイメージするセーラー服を筆頭にした「女子の制服」が標準服として指定されていくのは大正末期から昭和にかけてです。地域差もありそうですが、東京ではおおむねその時期。

それまでは「華美にならないように」という程度の指針があっただけなので、ハイカラ系女学生は派手なリボンをつけたりしていました。リボン程度が華美でも、髪型が束髪で華美でも、学校によっては問題なし。

標準服というものが出てきても、当初はかなりゆるくて、学校推奨のスタイルが提示されるだけで、その範囲での選択だったりしましたし、袴とそれら洋装の制服とが併用だったりしました。併用、選択の時代ですから、「これだけ」という制服とはちょっと違う。

 

 

着物から袴へ

 

vivanon_sentenceその経緯を写真で見ていくのが今回の趣旨ですが、髪型や写真の撮り方などにも時代が反映されていますので、見所は多いです。

まず明治十八年。

 

 

 

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