松沢呉一のビバノン・ライフ

お茶の水女学校の校則—女言葉の一世紀 50-(松沢呉一) -3,174文字-

写真で見る明治から昭和初期の女学生の服装 下—女言葉の一世紀 49」の続きです。

 

 

 

関東大震災と女学校の制服指定

 

vivanon_sentence今の今まで私も気づいていなかったのですが、お茶の水女子大の「お茶の水」という名称は、戦後になって正式名称になったものなのですね。戦前も「お茶の水大学」「お茶の水女学校」という名称が使われているため、すっかり勘違いしていたのですが、これらは通称で、それが戦後正式名称に。戦後は女学校ではなくて附属高校ですけど。

学校の名称については変遷があって、お茶の水女子大附属高校のサイトから、それがわかる部分を抜き出しておきます。

 

明治5(1872)年2月 本校の前身の官立女学校(文部省直轄の女子のための英語学校、のちに東京女学校と改称)開設す。立地より「竹橋女学校」「竹平女学校」と通称される。

明治10(1877)年 東京女学校閉鎖。東京女子師範学校に英学科が置かれ、在学生を受け入れる。

明治15(1882)年7月 東京女子師範学校附属高等女学校となる。

明治19(1886)年6月 東京高等女学校として独立す。

明治20(1887)年10月 官制の改定により文部省直轄学校となる。

明治23(1890)年3月 女子高等師範学校附属高等女学校となる。校舎を本郷区湯島3丁目の女子高等師範学校内に移転す。立地より「お茶の水の女学校」「お茶の水」と通称される。

明治41(1908)年4月 東京女子高等師範学校附属高等女学校と改称す。

大正12(1923)年9月 関東大震災にて校舎焼失す。

昭和10(1935)年3月 現校舎竣工、お茶の水より移転す。

昭和23(1948)年4月 新制附属高等学校(女子のみ)となる。

 

覚えきれない。戦後、新しい制度下でできたのがお茶の水女子大学で、その時にお茶の水女子大学附属高校になったわけです。

関東大震災で校舎焼失とありますが、これが制服指定に関係しています。

 

 

 

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