八ヶ岳登山もセーラー服で—女言葉の一世紀 53-(松沢呉一) -3,129文字-
「体操の時間も運動会も袴だった—女言葉の一世紀 52」の続きです。
セーラー服で登山
はっきりしたことはわからないながら、洋装標準服に切り替わって以降、体操の授業では引続き、体操服を使用していなかったようです。
八ヶ岳の登山の様子。
八ヶ岳ともなると泊まりでしょう。お茶の水女学校の修学旅行は別にあって、関西や東北に行ってますから、八ヶ岳登山はおそらく遠足なのだと思いますが、明治期の遠足のコースが記述されていて、王子、上野方面だったり、新宿、渋谷方面だったり、武蔵野方面だったり。専攻科は横浜だったり。その距離を伸ばして昭和に入ると八ヶ岳までってことなのか、また別の行事なのか不明。
そのため、袴の時代に登山をしていたのかどうかもわからないのですが、もしその時代から登山をやっていたのだとすると、袴で登山していたはず。登山だったら袖はそうは気にならなかったでしょう。
この写真を見ても、スカートは長めのようです。袴とそう変わらない。校則通り、膝の関節を覆う程度だと恥ずかしいとか、長い方が上品とか、なんらかの美的感覚が反映されていそうです。かつて着物は裾が長い方が美しく、上品でした。芸者はこの頃なお裾引きですから、その感覚がここに反映されているかも。一時のヤンキーが長いスカートだったのは先祖帰りです。
これを見てもわかるように、セーラー服が標準服になって以降も、校則がガチガチに厳しくなったわけではなくて、服装についてうるさくなったのは、戦時体制に入って、婦人団体が路上でとやかく言い出すようになってからではなかろうか。そこから今に至る。婦人団体、うぜえ。
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