松沢呉一のビバノン・ライフ

東京の女学生にお転婆が多かったのは富裕層だったから—女言葉の一世紀 56-(松沢呉一) -2,331文字-

昭和初期の女学生の体格は今とそれほどは変わらない—女言葉の一世紀 55」の続きです。引続き算用数字と漢数字が併用になってます。気にしないでください。

 

 

 

保護者の職に表れる当時の社会

 

vivanon_sentence表が詳細なので、転載はしませんが、お茶の水女学校の創立五十年(昭和七年)には10年間の保護者の職業調査も出ています。国立ですからさほど金がない層からも、成績が優秀な生徒が集まっているのだろうと思っていたのですが、農業は1名のみ。これも中分類では林業となっていて、純然たる農業はゼロです。10年間でゼロ。

出身地を見ると、ほとんどが東京府内であり、通学できない地域、たとえば愛知だったり、大阪だったり、兵庫だったりの出身は、毎年ゼロから最大3名程度しかいません。親が東京に転勤のために東京の女学校に入ったのもいたでしょうから、下宿をするようなのはほとんどいなかったわけです。

そのことが職業にも反映されていましょうが、当時東京府内でも、あるいは市内でも農業は多く、まして千葉や埼玉にはいっぱいいたわけですから、この数字はこの時代の農業家庭の環境の悪さを物語っていようかと思います。

あくまで「保護者」なので、親の職業と一致しているとは限らず、親戚が預かってくれている場合はその親戚の職業になるのでしょうが、百姓の親戚は百姓が多いですから、そんなのはほとんどいなかったでしょう。百姓の娘は、どんなに頭がよくても芸娼妓になるか女工にでもなるしかなかったのであります。

※『創立五十年』より裁縫の時間。教師は大写しになっているものがありますが、この本の中で、もっとも学生の顔がはっきりわかるのがこの写真です。お転婆か。

 

 

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