泉鏡花が語る「娘と女学生」—女言葉の一世紀 68-(松沢呉一) -3,762文字-
「北原十三男とメイ牛山—女言葉の一世紀 67」の続きです。
泉鏡花が見たある娘
扇谷亮著『娘問題』(明治四五年)には泉鏡花のインタビューも出ています。これを読むと、女学生がコギャルであったことがよくわかりますし、泉鏡花は女学生や婦人やら、つまり新世代の存在が大嫌いで、それが作品に反映されていたことも理解できます。
娘と云ふ問題だが、此頃は我々の考へる「娘」と云ふ一字の使ひ処がマアなくなって来た。婦人とか女子とか女学生とか称する娘とは頗る縁の遠い連中許で、娘と云ふ女には先づ滅多に出会(でくわ)さないと云って宜い。
何でも此夏の初めの事。不図電車の中で怪しげな装飾を凝らし揃ひも揃って仰向き加減に済まし込んだ婦人、女子、大廂(ひさし)の女学生など云ふ手合の中に水際立って美くしい可憐な娘を見た。此娘は大した美人と云ふわけではないが、質素な久留米の井の字絣肌の単衣に薄い鴇色の肌襦袢を着、帯は紅入の唐縮緬に帯上げも紅く、髪は無論桃割れに花簪を挿してお約束の木履(ぽっくり)を穿いて居る。之は平常着(ふだんぎ)の儘で、何処が変って居ると云ふ訳ではないが、謹(つつ)ましやかにチョイと俯向き加減に腰を掛けて居る処に何等の装飾を施した跡もなく、見せびらかす様な処もなければ、徒らに人を挑発する様な処もない。唯綺麗薩っ張りとして如何にも優しく温順(おとな)しく思はれた。
一体今の婦人とか女子とか女学生とか称する連中のチョイチョイの扮装(なり)を見ると、申合はした様に会体の知れぬまがい物や怪しげな新縮緬瓦斯糸入などと云った様なものを着て居る。(略)
恁(こ)んな手合に限って向から好男子でも来ると、横目でジロリしながら真先にチョイと襟を直す。大廂の女学生抔(など)云ふ手合は夫れが如何にも巧妙なもので、然も殆んど其揆を一にして居る。(略)
一体女学生など云ふ手合は根本に於て装飾の方法を誤解して居る。例の薄汚い二枚襟の上へ縁日もののベールやビードロ入の指輪を嵌める。綺麗だらうが汚になからうが欲しいと思ふ物は身体中へベタベタ貼付けた様に背負って歩く。(略)
而して、ほんの三、四年の娘盛りだもの、態々(わざわざ)婦人や女子や女学生にならずとも、娘で学校へ通ったら宜さそうに思う、又近頃異性の匂ひだなんて難有ってる様だが、昔は異性の匂ひなんてものはなかったもんだ。今も左様な臭のある可き筈のものではないが、女子連がヤレ白粉下だのクリームだのと碌に洗ひもしない白粉の上へ上へと色々のものを塗り立てる。其不潔な生温い臭が即ち異性の匂ひと御承知あるべし。
婦人・女子・女学生を嫌い、それに娘を対比させています。「ビバノン」でやっていたシリーズみたいです。
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