松沢呉一のビバノン・ライフ

存在しない方がよかったドキュメンタリー—厄介な「レイシストカウンター」批判 24(松沢呉一) -3,576文字-

独立映画鍋の対応-厄介な「レイシストカウンター」批判 23」の続きです。2015年7月に書いたものです。更新する準備はできていたのですが、独立映画鍋からの回答があったため、出すタイミングを逸した回です。

9月11日(月)にネイキッドロフトであった山口祐二郎プロデュース『日本を撃て! 日本を考える爆裂トークイベント!』で話そうと思っていたことがあったのですが、話すタイミングがありませんでした。そのことを改めてここで書いておこうと思うのですが、その前に未発表になっていたこの回を出しておいた方が理解しやすいので、こちらも復活することにした次第。

 

 

ない方がいいドキュメンタリー

 

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秋山理央の動画を無断使用-厄介な「レイシストカウンター」批判 20」で、秋山理央の名前を出すにあたり、当時のメールのやりとりを読み直して確認したのですが、仮編集の段階で我々が危惧していたことのひとつは、「あの映画をそのまま出されるとカウンターのダメージが大きい」ということです。「カウンターって、こんなレベルかよ」と。

インタビュー部分以外はすべて借り物、そのインタビューでさえ音声が聴き取れないお祖末さ。「今の日本に絶対に必要なドキュメンタリー」 どころか、「今の日本にない方がいいドキュメンタリー」というのが我々の評価です。

この評価は時間が経つにつれて確信となっていきます。内容に関する決定的な疑問点もあって、私が理解しているカウンターとはズレている。それは人選でもわかります。

当初、カウンター参加者のほとんどは、「在特会のヘイトデモはダメだろ。なんとかして潰すべ」という思いだけで動いてました。いろんな背景、いろんな考えはあるにしても、そこだけは合致していました。だから、次々とそれぞれの考える方法に着手し、連携していくことが可能でした。政治的姿勢も、職業も、立場もバラバラながら、その目的だけが共通してました。

しかし、そこから離れた時には意見の齟齬がはっきりしてくる。たとえばヘイトスピーチ規制法です。私は刑事罰を加えることに反対。しかし、あの映画では、ヘイトスピーチ規制法を進めようとする人にそれを語らせています。

これではカウンターに、どうしてああも人が集まり、連帯が可能になったのかが見えなくなり、カウンターが誤解されてしまいます。私はヘイトスピーチ規制法のためにカウンターをやったことは一度もない。むしろ、法規制に反対するからこそ、自分たちの手で潰すという考えです。

法規制すべしという結論にもっていくような映画に出られるわけがない。それはカウンターから離れた別の論点です。その論点をクローズアップするのなら、どうして一方の意見だけを取り上げるのか。私に聞いてくれればなんぼでも反対意見を言ってやる。あの映画には出ないけどさ。

一方に、法規制を結びつけるためにカウンターをやっていた人たちも現実にいます。その方が多いのかもしれない。考えていることは違っていますが、それでもカウンターという範囲では手を握れる。

秋山理央が撮り続けた動画はそこに徹しています。現場に徹することで正しくカウンターをとらえている。それを掠め取るようなことをして、「法規制すべし」のキャンペーンに利用したのがあの映画。

現場の映像だけではわからないから、その背景を見せるというのであれば、有名無名を問わず、ただの学生、ただのラーメン屋、ただのサラリーマン、ただのパンクスを含めて、「いかにバラバラな人たちが連携したか」を見せるべきでした。

 

 

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