松沢呉一のビバノン・ライフ

母性の保護と貞操の管理—女言葉の一世紀 89-(松沢呉一) -2,995文字-

活動写真館の案内ガール—女言葉の一世紀 88」の続きです。

 

 

 

『生きんとするものの力』より

 

vivanon_sentence新時代の新婦人職業の紹介を一通り終えたところで、「工場法を巡る廃娼運動の不可解—女言葉の一世紀 80」で取り上げた沖島哲二郎, 水戸純三著『生きんとするものの力』(大正十二年)に再登場していただくことにしましょう。

まず最初に説明しておきますが、この本の「婦人解放運動」の章は、「新しい女」以降の新思潮を踏まえながら、女の社会進出をどうとらえるかを論じた内容です。

社会進出に肯定的ではあるのですが、それを全肯定はできてはいません。相変わらず、女にとっては真の愛情をもって結婚するのが幸せであり、女が仕事を持つと婚期が遅れ、独身主義者までが出てきてしまうため、そことの兼ねあいで逡巡してるのがなんだかなあというところです。

その程度のものでありますから、それに背いて貞操を売る「売淫婦、娼妓、芸妓、妾(高等内侍)」を「脱線の部」として排除をしているところもなんだかなあ(ここでの「売淫婦」は娼妓に対する私娼のこと)。

 

 

彼(か)の妖婦だと、罵られる売春婦! 出没自在の売淫婦! 嬌々として行く人の春を唆(そそ)って、生活しやうといふ腕の辣(すご)い女! 一度彼等が手管に乗らんか、驚破や巫山の雲舞いて、急雨枕を漂すといふ凄い腕、世間の人は、人間外の取扱をしておる。然し、彼等が此の手管の人となるに到るに就ては、相応に波乱を試みたものである。彼は恋愛の失敗者である。捨てられた女である。然し恋愛を強て忘れたのである。深刻な人生の温味を知らないのであらうか? 否知って而して味った上、是を否認したのである。

……捨鉢になる迄の彼女は、泣いて泣いて男の無情を嘆いた可愛な乙女であったのである。可憐な乙女は、針をささるやうな辛い思ひをして、恁(こう)した恐ろしい女となったのである。

 

 

勝手なことをうだうだ言ってんじゃねえよって感じ。ああいう女にも同情すべき点があるのだという論です。

たしかに昔は恋愛の失敗で自棄になって売春するようなのもいたでしょうけど、だったら、「貞操なんて屁のようなもの」と言い切ってしまうべきだったかと思います。

しかし、そうは言えなかった。「貞操を守れ」と言いたがる人たちが売春を支えていたわけです。

 

 

新思想でも結局結婚が解決

 

vivanon_sentence商売だけじゃなく、「若い春を弄(なぶ)られて、捨てられた其身になったら、夜も日も忘れる事の出来ない程悲惨であらう」としていて、結婚前に処女を失うことを戒めつつ、慰めてもいます。

 

 

恁した破境の婦(をんな)が、人間的に醒(めざ)めて、健気にも独立の職業を得て、自活の途を講ずるといふのが、近代の職業婦人には決して稀でない。恁した職業婦人に対して、其半生を幸多かれと、私は祈るものである。形式上の処女の誇は破られたが、まだ心の宮に飼はれておる、愛の雛鳥は顕在であらう。理解を得たら、真に愛の世界に入って、新しい家庭を建設するの日は、必ず来るであらう。

 

 

どこまでも解決は結婚なのであります。「処女じゃなくてもいつか真の愛を得て結婚できるから安心しろ」と。なんで「結婚がすべてではない」の一言が言えなかったのでしょうね。この著者たちは決して保守派というわけではないのに。

しかし、平塚らいてうだって与謝野晶子だって結婚しない生き方を肯定し得ませんでしたから、この時代の限界です。親が決定する封建的な結婚か、霊肉一致の恋愛結婚かの違いはあれども、結婚をするのが女の幸せなのであって、結局のところ、「新しい女」も、良妻賢母とさして変わらない「劣化版エレン・ケイ」から逃れられなかったのです。伊藤野枝や花園歌子は特例として。

 

 

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