松沢呉一のビバノン・ライフ

男女の交際をどうとらえるか—女言葉の一世紀 101-(松沢呉一) -3042文字-

不良少年の「握り」という手口—女言葉の一世紀 100」の続きです。

 

 

 

結婚前の男女の交際

 

vivanon_sentence私が子どもの頃、1960年代であっても、「婚前交渉は是か非か」なんてことが論じられていたものですが、それよりずっと早く明治の時点でも「結婚前の交際をどう考えるのか」が論じられています。この場合はセックスを意味しているのではないのですが。

これも扇谷亮著『娘問題』(明治四五年)から見ていきましょう。

成瀬仁蔵・日本女子大学学長は「新しい女」と同様の「霊肉一致」派でありつつ、そちらをも諌めて、守旧派にも配慮した内容。というより、自身がどう考えていいのかまだ結論が出せない迷いをそのまま述べた内容といった方がいいか。

 

 

結婚を何う云ふ風にするが好いか、結婚前に交際をさするのが可(よ)いか悪いかは直ちに論壇することが出来ぬ。尤も日本には日本の風俗習慣があるから直ぐ西洋流を真似るのは宜しくないが然ればとていくら習慣を重んずるにしても能く古風に許嫁などと云って本人同志(ママ)の意思も定まらぬ子供の中に親の勝手な意見だけで結婚の約束をするやうなことは宜しくない事勿論である。然らば結婚には何う云ふ条件が必要かと云ふに先づ少なくとも男女双方の意思が好くしっくりと合ひ、信仰でも趣味でも適合して互ひに相知ると云ふことが必要である。随って本人には相当の教育を施して、之れに対する智識を与へ、且つ其の判断力を養成せねばならぬ。斯うして成り立った結婚であってこそ始めて幸福で円満な家庭が作り得られる訳である。西洋の教育は幼い頃から男女と云ふ区別を六づかしく立てず、学校なども全く混合した教育をして男女の交際は頗る自由であるが、是れには夫れ夫れ社会的の制裁もあるし、又本人にも夫れ相当の教育を施してある。(略)

然るに日本では此様(こう)した土台も出来て居らず、又斯うした風の教育も為て居らぬ。(略)

未だ思慮する常識もなく、身体の発達の十分で無いのに結婚をするのは不幸の結果を見る事が多い。本人の意見も定まらぬ先に親の威光を笠に着て無理に押付けて結婚するなどは決して宜しくない事は云ふまでも無い。(略)

結婚の約束をしてから若干の期間は交際させるも宜い方法であるが、夫れが余り久しくなるならば却って弊害を生ずる虞れがある鴇には晩餐を一緒にしたり、又は談話を交換したりする位ゐの事は結構には相違無いが、夫れにも又た常に適当の監督者が必要である。全然放任主義を取って交際させるのは我国の習慣にも合はぬし、又却って非難を生ずる事になるであらう。(略)

今の娘は兎角自由意思などと云ひたがるが、自由意思と云へば、何だか本能の我儘を自ら満足せしめる自然主義でもあるやうに考へられるし、又他の一面から解釈すれば教育経験智識より来る自分の意、必しも、考へられる結婚に関して自由意思と一口に云ふ事は其の意味が甚だ判然し兼ねる虞れがあると思ふ。

 

 

自由意思による結婚や交際に踏み切るにはこの国は成熟していないというわけです。ここにもパターナリズムが滲んでいます。「欧米の人たちはわかっているが、日本人はわかっていない」「私はわかっているが、他の人はわかっていない」という考え。今もこういうことを言いたがる人は多いですね。

※東北芸術工科大学東北文化研究センター所蔵「ラヂオ講演 芝区文華高等女学校

 

 

 

平塚らいてう「男子を嚇かしたい」

 

vivanon_sentenceこのことは外部の刺激に娘をどう対処させるかという問題でもあります。

扇谷亮著『娘問題』(明治四五年)には平塚らいてうも「平塚明子」名義で登場しています。

 

 

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