松沢呉一のビバノン・ライフ

棚橋絢子・東京高等女学校校長は嘆く—女言葉の一世紀 109-(松沢呉一) -3,451文字-

ピーター・トンプソンとセーラー服—女言葉の一世紀 108」の続きです。

 

 

 

女学校側の焦り

 

vivanon_sentence女学生の不品行は、良妻賢母を売りにする女学校としては甚だ都合が悪い事態です。

「女学校卒業」という箔に傷がつきます。「処女だと思っていたら、処女じゃないどころか、出産経験もあるのかよ」と男側から責められ、「安心して娘を入学させられない」と親も不安がる。実際、女学生や卒業生の不祥事が報じられるたびに親たちやマスコミから学校は責められたでしょう。

棚橋絢子という人物がおります。夫・棚橋一郎が創立した東京高等女学校の初代校長であり、大正から昭和まで、女学校界の重鎮でありました。

東京高等女学校は港区芝にある東京女子学園の前身です。東京女子学園は、その名前がはっきりとはわからないようにして、看板の写真を「ビバノン」で使用しています。歩いている時にたまたま見つけただけです。

その東京女子学園のサイトでも、棚橋絢子が紹介されています

 

 

 

 

女性は婦徳・良妻賢母だけでなく、知性にもとづいた自らの力で判断し行動する能力を養わなければならぬ」としていますが、そう言い出したのはずいぶんあとのことではなかろうか。あるいは戦前の言葉を都合よくアレンジしたか。

女らしく』をざっと読んだ限り、頑なに守ろうとしたのは、伝統に基づいた男女の分担であり、婦徳・良妻賢母であって、あとは枝葉末節。知性はそのためのものでしかない。

 

 

お転婆否定をする棚橋絢子

 

vivanon_sentence扇谷亮著『娘問題』(明治四五年)に、棚橋絢子の談話が出ております。

 

 

時勢が移り変るに連れて昔と今とは大変娘の風が違って来ました。一番目に付くのは娘達が一般にお転婆になった事です。昔の娘は皆温順(おとな)しかったもので、如何にも女らしい美しい処がありましたが、当節の娘は男だか女だか見分けが付かぬ様なのが幾らもあります。尤も今の娘達が斯うなったのも時勢の為でせう。昔は世の中の制裁が厳しくって娘と云ふものは引込んで居るべきもの、知った事も知らぬ振りして黙って控へて居るべきものと他から圧制的に温順しくしなければならぬやうに仕向けられて来たので、遂に十人が十人皆温順しいものになって了ったのですが、当節は何も彼も西洋流のはいから風で教育され、今迄は家の奥座敷に閉ぢ込められて居た者が俄かに広い世界に放されて自由に歩き廻る事ができるやうになったので、つまり昔の引込み主義の反動で出過ぎる様になってきたのです。昔はお転婆娘と云ふと非常に嫌はれて爪弾きされたものですが、当節では別に人が怪しまなくなりました。それですからお転婆娘は益々お転婆が募って行く許りです。

(略)

貞操が大変堕落してきました。今の女学生等は男に袖を引かれて応じない者が殆ど無いと云ふことですが、是は皆虚栄心の結果で、男に世話をして貰って栄華な暮しをしたいと思ふ為です。

 

 

ここまで何度かにわたって見てきた湯原元一・東京音楽大学校長のように、欧米の改革派の影響を受けて、お転婆を肯定的にとらえる教育者がいた一方で、女学校の教育者たちはおおむねそれに抵抗をしており、棚橋絢子もその一人です。

結婚がすべてであるかのような教育をするために、早いうちから結婚相手を探し、それが貞操の堕落を招いている側面があったのですから、女学校は「女は男に世話をして貰って当然」という教育をやめようと考えてよさそうです。しかし、そうはならなかったのであります。

棚橋絢子先生は、この風潮に対してどう対処をしたのか。

※棚橋絢子の写真は東京女子学園のサイトより。

 

 

性欲が堕落の遠因

 

vivanon_sentence棚橋絢子著『女らしく』(大正四年)に「女学生堕落の遠因」という文章が出ています。

長くなりますが、当時の女学校はどういう考え方によって運営されていたのかがよくわかりますし、女学校の校長も頭を悩ませるくらいに女学生の不品行が問題になっていたこともわかります。

 

 

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