松沢呉一のビバノン・ライフ

職業としての風俗嬢—南智子インタビュー[3]-[ビバノン循環湯 354](松沢呉一) -5,264文字-

最高の職場「ワイルドキャット」—南智子インタビュー[2]」の続きです。

 

 

 

性風俗は当たり前の一職業

 

vivanon_sentence南智子さんの話の3回目。ここまでは彼女の性風俗遍歴、ここからは彼女の性風俗観、仕事観について。

「売春なり風俗なりが、いいことなのか悪いことなのかって聞かれたら、いいとも悪いとも答えられない。誰にでも“体験してみなさい”って、勧めるつもりもない。場合によっては、命の危険もあって、生半可な気持ちでやるべきではないと思います。娼婦になったからといって、楽に簡単に大金を得られる時代でもない」

彼女は好んで「娼婦」という言葉を使う。たとえばそれはシャンソンに出てくる女たちのイメージであり、吉行淳之介の小説に出てくるイメージであり、もちろん肯定的な意味合いだ。

「他人に勧めはしないけれど、自分にとって風俗嬢とは何かというと、当たり前の一職業だと私はとらえている。お金をとって、あるサービスを提供する仕事であるからには、プロ意識をもってやらなくちゃならないというのが私の仕事に対する気持ち。私の倫理観は、明朗会計であることなのね。自分の与えられた仕事の範囲で出来得る限りいい対応をするのが私の倫理。その意味で、ずっと自分の信念を貫いてきた。ちゃんとした仕事をしてきたつもりなの」

この倫理観はだいたいどんな仕事であっても通じるものであり、当たり前と言えば当たり前。ただ、世の中の少なからぬ人は、性風俗というもの自体を正当な仕事として認めようとしない。ここが南さんや私が理解できないところだ。

「私も同じ意見なんだけど、松沢さんがよく言う“セックスに対する特別視”がまとわりつく。セックスにまつわるものというだけで、特別な何かにしか見ないから、他のものと同じだとは思ってくれないよね。職業のジャンルでいうと、風俗はサービス業かもしれない。国によっていろいろだし、日本でも街娼がいるけど、日本の風俗嬢はほとんどお店に属している。これを搾取という人もいるけど、私はフリーでやるのなんてイヤですよ。搾取していいから守って欲しい」

自分は会社に属して、性風俗の比ではなく搾取されている人たちが、性風俗に対してだけ「搾取だ」と騒ぎ立て、そのおかしさにも気づけない鈍感さにはつくづく呆れる。

「ホテトルで殺されたのはいても、警察に聞いたところによると、店の中で殺された風俗嬢はいないんだって」

遊廓時代には無理心中という名の殺人事件は起きていたし、赤線時代にも殺人事件はあったが、今時の風俗店ではまず考えにくい。よっぱどその辺のスナックや居酒屋の方が酔っぱらいの殺人事件が多いくらいだろう。

「客にも勘違いしているのがいるよね。風俗店もお店である以上は、そこで提供されるサービスは決まっているわけよね。なのに“オレは金がある。おまえは金をもらえればなんでもやるんだろ”というのは、“寿司屋にフランス料理を作れ、オレは客なんだぞ”というのと同じで、普通なら通用しない。でも、なぜか風俗に対してはそう思ってしまう人がいる。本屋に行って、“パイナップル売れ”というのは、バカって話でしょ。それと本当は同じことのはずなのに理解されにくい」

「はい、わかりました」って、果物屋にまでパイナップルを買いに行ってあげる親切な本屋もいるかもしれないが、だからといって、それをやらない本屋が非難される筋合いはなく、ここで非難されるべきは客である。

「本当は私たちだって本屋や寿司屋さんと同じであって、それぞれの店で、それぞれの人が提供できる精一杯のサービスがある。中には何でもやることが私のサービスという人もいて、個人個人が得意な分野や範囲があるんだから、そういう人もいていい。ただ、働く側の意識も、そこまでプロフェッショナルな意識になっていないところがある。明朗会計で、お金をもらった分のサービスをきっちりやろうというのばかりじゃない。でも、他の職種だって、いい加減にやっている人はたくさんいて、これもとくに風俗に特別に見られることではないよね」

タクシーの運転手にも、態度のいいの、悪いのがいる。たまたま悪いのがいるからといって、タクシーの運転手という職業自体を全否定することにはならない。ライターだってなんだって全部一緒。なのに、風俗嬢たちは常に「風俗嬢」というまとまりで語られがちで、しばしば人はネガティブな印象を持って語ろうとする。単なる職業名なのに。

リンク先に書いているように、その後、吉原のソープランドで殺人事件がありましたが、数十年に一度といった発生率だと思われます。それに比して無店舗型や出会い系ではいかに殺人事件が多いことか。そのことも考慮せずに店舗を否定する人たちの冷酷さよ。

※その原稿は見つからないのだが、どこかの雑誌で南智子と斎藤綾子の対談をやったことがあり、私がまとめ役で、そこに「この二人の対談本を作れば面白いのに」といったことを書いたのを見た編集者が作ったのが『男を抱くということ』。でも、あんまり面白い内容にはなっていなかった記憶があります。どこがどうだったのか、細かいことは全然覚えてない。

 

 

金は汚いものという考え

 

vivanon_sentence「よくこういう時に思い出す話がある。私、大学で日本画を勉強していたんですよ。こんな話の時に引き合いに出されるのは、本人も遺族も不本意かもしれないけど、私としてはとても似ているなと思うことがある。いろんなことを学ばせてもらった人で、もう亡くなったけど、有名な日本画のおばあさんがいたのね。その人がよく講釈をたれてくれたんだけど、“絵とか芸術を売るというのは非常に卑しいこと汚いことで、それを売っているということはもうダメなんだ”って言う。でも、その人は奥さんだから、生活のことを考えなくていいだけ。だから言うことに説得力がない。みんなは“エーッ”て内心思うんだけど、大先生だから、その場では逆らえない。でも、売ったら、すぐに汚くなるというのは、突き詰めると、お金は汚いってこと。商売のネタにしたら、魂が汚れている。そういう考えは、どこのジャンルでもある。経済ヘイトというかお金ヘイトというか」

 

 

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