松沢呉一のビバノン・ライフ

林望の嘉悦孝子擁護論を批判する—女言葉の一世紀 113-(松沢呉一) -3,078文字-

女子の社会進出に強く反対する嘉悦孝子—女言葉の一世紀 112」の続きです。

 

 

 

林望の嘉悦孝子擁護論を批判する

 

vivanon_sentence前回嘉悦学園「建学の精神」で、創設者である嘉悦孝子の説明がアレンジされすぎていて、嘉悦孝子が実際に何を主張して教育していたのかがわからなくされていることを確認しました。その下には林望による、相当無理がある嘉悦孝子の擁護論が出ていて、この方針をサポートしています。

 

 

 

 

 

『怒るな働け』の心は…

 

大正デモクラシーの時代になると、嘉悦孝のような考え方は、旧弊思想だと見做されていたらしい。

なにぶんとも、『怒るな働け』に「女性は矢張女大学風で育てられた女性でなければなりません」とあったりして、現代から見ても、それはかなり古めかしい感じに受け取る人が多いのもやむを得ない。

一方で、慶応義塾の福澤諭吉は、夙に男女の平等を唱導して『女大学』の如き女訓書を完膚無きまでにやっつけていたのだから、同じ明治の教育家としては、一見正反対の立ち位置にあったように見える。

しかしながら、この両極端の教育家が、不思議に一致して提唱する点が一つある。すなわち、女性が計数実学に暗くてはいけない、なかんずく経済という方面に実力を涵養しなくては、新時代の女性のあるべき姿として望ましくないと主張していることである。

「時代」ということを無視しては成り立ち得ない。孝は、明治維新期の富国強兵の時代思潮のまっただ中に人となった。(以下略)

 

 

これ以降を簡単にまとめると、「そういう時代に生まれ育った嘉悦孝子は限界の中での改善を求めようと奮闘した」といったところでしょうか。

だから嘉悦孝子と福沢諭吉と価値が等しいなんてことまではもちろん言ってないわけですが、嘉悦孝子の正確な主張がなされていない嘉悦学園の「建学の精神」においてこの一文を読むと、知識のない人は確実に誤解するでしょう。そうは言ってもリベラルな人だったのだとか、嘉悦孝子は福沢諭吉ばりに経済を重視していた先進的な側面があったのだとか。

いかに経済の知識が女にも必要と主張したと言えども、嘉悦孝子の経済はあくまで家政学としての経済であり、「家計経済」に過ぎません。福沢諭吉のそれとは別物です。だから、「女は能力が低いから社会進出をするな」「役所や銀行はいかに給金が安いからと言って女を雇用するな」と主張したのです。能力の低い女は家の中で家計をやっていればよく、そのための修養が必要だとしたに過ぎません。

林望は福沢諭吉の『女大学評論・新女大学』を監修しておきながら、よくこんなことを書けたものです。林望は福沢諭吉と比肩させることなど土台無理であることをわかった上で、無理矢理擁護らしきことを書いただけなのでしょうし、そうしようとした時に、意味合いがまったく違う「経済」の一点くらいしか見つからなかったのだろうと想像します。

※ここでは嘉悦孝になっていますが、前々回説明したように、孝子でも孝でも可。

 

 

福沢諭吉の「女大学」批判

 

vivanon_sentenceいずれまた詳しく取り上げることもあろうかと思いますが、福沢諭吉の姿勢は、『女大学評論』の始まりの部分を読むだけでも十分理解できようかと思います。

以下は青空文庫からの転載。

 

 

一 それ女子にょしは成長して他人の家へ行きしゅうとしゅうとめつかふるものなれば、男子なんしよりも親の教ゆるがせにすべからず。父母寵愛してほしいままそだてぬれば、おっとの家に行て心ず気随にて夫にうとまれ、又は舅のおしただしければ堪がたく思ひ舅をうらみそしり、なか悪敷あしく成て終には追出され恥をさらす。女子の父母、我おしえなきことをいわずして舅夫の悪きことのみ思ふは誤なり。是皆女子の親の教なきゆゑなり。

成長して他人の家へ行くものは必ずしも女子に限らず、男子も女子と同様、総領以下の次三男は養子として他家に行くの例なり。人間世界に男女同数とあれば、其成長して他人の家に行く者の数もまさしく同数と見てなり。あるいは男子は分家して一戸の主人となることあるゆえ女子に異なりと言わんかなれども、女子ばかり多く生れたる家にては、其内の一人を家に置き之に壻養子して本家を相続せしめ、其外の姉妹にも同様壻養子して家を分つこと世間に其例はなはだ多し。れば子に対して親の教をゆるがせにすべからずとは尤至極もっともしごくの沙汰にして、もある可きことなれども女子に限りて男子よりも云々とは請取り難し。男の子なれば之を寵愛してほしいままに育てるも苦しからずや。養家に行きて気随気儘きずいきままに身を持崩し妻にうとまれ、又は由なき事に舅を恨みそしりて家内に風波を起し、ついに離縁されても其身の恥辱とするに足らざるか。ソンナ不理窟はなかる可し。女子の身に恥ず可きことは男子においてもまた恥ず可き所のものなり。故に父母の子を教訓するは甚だし。父母たる者の義務としてのがれられぬ役目なれども、ひとり女子に限りて其教訓を重んずるとはそもそも立論の根拠を誤りたるものと言う可し。

 

 

冒頭に引用されているのが「女大学」で、それに対して福沢諭吉は徹底的にこき下ろしています。

 

 

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