松沢呉一のビバノン・ライフ

「万国平和会議で平和を絶叫したい」と語る森律子—女言葉の一世紀 119-(松沢呉一) -3,335文字-

「「月光の下に」と森律子の貞操観—女言葉の一世紀 117」の続きです。

 

 

 

自由な分、結婚しない方が幸せ

 

vivanon_sentence森律子はいいことをいっぱい書いているのですが、平塚らいてうや与謝野晶子も逃れられなかった結婚の呪縛からも森律子は解き放たれております。

以下は「独身者の悲哀と慰安」から。

 

 

独身者といふと—序でに云って置きますが、妾の云ふ独身者といふのは婦人を本位にしたものですが、一般に直と寂寞とか悲哀とかいふ言葉が思ひ浮かべられるやうですけど、独身者のみが必ずしも寂寞である悲哀であると限った訳ではなからうと思ひます。若し独身者が凡て寂寞であり悲哀であって、既婚者が凡て愉快であり幸福であるならば、世の中の実例が凡てそうありさうなものでありますが、必ずしもさうでないのを見れば、寂寞とか悲哀とか幸福とか不幸とかいふことは、独身非独身の如何に依て決定されるのではなからうと思はれるのです。独身者に対する寂寞とか悲哀とかいふ言葉は、或は意味に於て既婚者のそれとは全然違って居りませう。けれども、愛もなくして結婚した人々の心の寂寞、生活の悲惨は、決して独身者の或る者が持ってゐるやうな寂寞や悲哀に較べて、決して軽いのだとは思はれないのです。

世の中の結婚が凡て愛の上に成立ち、生活の事情が凡て順調に行くものだとすれば、結婚者ほど結構なものはありますまい、けれども現今の結婚は大部分さうではなささうですから、一面から云ひますと、寧ろ拘束を受けない自由な点に於て却って独身者の方が幸福と云へるかも知れません。

 

 

その自由を得るためには経済的に自立しなければならず、当然、森律子は女が職業を持つことを肯定します。

 

 

世の中の状態がだんだん変わって行くにつれて、現今(いま)では婦人の職業に従ふことは、決して珍しい事ではなくなりました。婦人が職業に従ふことは、言い換へれば婦人が独立できる可能性が多くなった訳ですから、今後は益々婦人の独身者も多くなることでせう。

妾は職業婦人は独身者たれ、といふやうなことを決して云はうとは思って居りませんが、然し職業に忠実であり便利であるといふ点から云へば、独身者の方がより好都合であらうと思います。特に、形の無いものに想を凝らしてその中に歓びを求める者、例へば文学者だとか音楽家だとか、俳優だとかいふやうな芸術的な種類の職業に従ふ者に於ては猶更だらうと思ひます。

 

 

「職業に従う」というのは「職業に就く」という意味のよう。

 

 

人は人、自分は自分

 

vivanon_sentenceこのあと絵画では売約済みの札がついていると見物人が減るように、女優も結婚すると人気が落ちるという話を書いて、こう続けます。

 

 

然し妾は、さういふ意味で—上辷りな、人気取的な、単なる虚栄から出るやうな理由の下に、職業婦人の独身を推すものではありません、独身者たることが、それらの便利を自ら持ち得ることは勿論でありますが、妾の云ふのは、もっと深く、もっと真実な意味で、職業に対して真に忠実なる為めには、どうしても独身でなければならなくなるのです。

 

 

今の時代であれば結婚したって、ある程度の自由はあるし、自分の目標を達成することができるでしょう。場合によっては、経済的に汲々としなくていい分、結婚している方が自由があったり、目標を達成することもありましょうけど、この時代、つまり良妻賢母にならなければならなかった時代において、森律子のように終りのない芸道を極めようとしたら、独身でいるに越したことはなかったわけです。

ここまでの引用文でもわかるように、誰しも独身がいいと言っているのではなく、事実独身者には悲哀寂寞の虜となっているのがいて、そういう人は結婚した方がいいとも言っています。独身でいることによって暢気で気儘で自由で、自分の目標に邁進できているからこそ、自分にとっては独身がいいと言っているのであり、そう出来ない人は結婚すればいい。

「人は人、自分は自分」という考え方をしっかり実践しています。個人主義です。リベラルです。

 

 

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