「私」で語れない女たちのフェミニズム的解釈—「私」を主語にできない問題[4]-(松沢呉一) -3,033文字-
「『ワタシが決めた』の経験—「私」を主語にできない問題[3]」の続きです。
ヘイトデモに見られる「不安な自分」
「私を主語にできない問題」は、以前からたびたび取り上げています。つねに批判的な文脈です。
この気持ちの悪さは、ヘイトデモでも頻繁に感じます。
ヘイトデモに参加しているヤツに解散後声をかけてメシを食った時に、彼は大要こんなことを言い出しました。
「日本人は優れている。韓国人や中国人は劣っている。ノーベル賞受賞者の数を見ればわかる」
ヘイトデモに参加しているヤツのすべてがここまでバカではないですけど、ある典型ではあります。
私はこう説教しました。
「仮にだ、ノーベル賞の数が国民の質を見る基準になるとしたら、日本人はアメリカ人に絶対に勝てない劣った国民になっちまうぞ。アメリカ人はどんだけノーベル賞をとっているよ。アジアでは日本人の受賞者数が多いとしても、それは先に西洋化が進んで、その基準での評価が可能になったから。これからどんどん抜かれるよ。なんにしたっておまえがノーベル賞を受賞したわけではない。おまえはノーベル賞受賞になんの関係もないし、なんの寄与もしてない。おまはただのバカ。おまえはどこの国に行ってもただのバカ。中国に行っても韓国に行っても、大半はおまえより優秀。それを直視しろ」
なんて言いながら、私もアメリカ人がどれだけノーベル賞をとっているのかわかっておらず、「いっぱい」としか認識していなかったですが、米国人の受賞者数は2017年までに371人。人口比を考えても、5倍くらい日本人より優秀。勝ち目がないから、こいつらは米国追従なのか。
ノーベル賞をそこまで信仰できるのもすごいけれど、ノーベル賞の数で国民の質を量れるのだと信じ、欧米諸国の数字はすっ飛ばして、日本人は優れていると思い込め、それを自分自身と重ねられるのもすごい。発想がガキってことです。
これが個人で自立できないヤツの無様さです。空疎な自分を日本人という集団に重ねて安心する。
しかし、日本人という属性に重ねることに嫌悪感を抱く左派でもまた属性で人を見て、属性と自分を重ねる発想をする人たちがいるんです。
※写真はアルフレッド・ノーベル。Wikipediaより
学生時代から見てきた「属性で決めつける人々」
世の中には「〜に反対する市民の会」「〜に反対する学生の会」「〜に反対する女の会」といった市民運動がよくあります。これは意味がずれなくわかる。いろんな市民、いろんな学生、いろんな女がいる中で、その対象に反対する人たちの集まりです。
シュプレヒコールでも「学生は反対するぞー」とか「労働者は連帯するぞー」というフレーズがあったりしますが、シュプレヒコールは短いので、「ここにいる学生」「ここにいる労働者」の「ここにいる」が省略されているものでありましょう。ここまではついていけます。
しかし、「戦争は男がやる。女は戦争に反対する」みたいなフレーズがビラに書かれていたりすると、黙ってその場から去るしかない。婦人運動が戦時にやったことを見えなくし、それを直視して反省することなく、「戦争において女はただの無垢な被害者であった」という歴史観を作り上げていく心理ときれいに重なっていて、うんざりするのです。
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