松沢呉一のビバノン・ライフ

客観が欠落した人たち—本当に児童生徒の読解力は落ちているのか?[7](最終回)-(松沢呉一) -3,977文字-

嫌われるのが怖い—本当に児童生徒の読解力は落ちているのか?[6]」の続きです。

 

 

 

同化の程度と範囲

 

vivanon_sentence身内に甘くなる傾向はどうしたって起きます。私もそうなってしまうことは避けられない。親交のある人とない人とでは対応は違う。同じく面識があるとしても、世話になった人とそうではない人とも対応は違う。ほとんどの人がそうだと思いますが、人によってその程度が違い、適用される範囲も違います。

たいていの人は、家族を無条件に守ろうとするってもんでしょう。最強の利害共有集団ですから。

親でも子どもでも妻でも夫でも、家族が殺人事件の容疑者として捕まって、本人が否定していれば冤罪であることを信じる。明らかに犯人だとしても、なんとか助けようとしてしまうことを責められない。だから、刑法上も特例として親族が犯人を逃したり、証拠を隠滅しても刑が免除されているわけです。

いかに罪に問われないとわかっていても、逮捕されるまで延々と協力者であることを求められるのは面倒なので、私は逃がしたり、隠したりせず、自首するように説得すると思いますが、それでも家族というところでのバイアスはかかります。借金を踏み倒すために惨殺したのだとしても、相手にも非があったんじゃないかと考え、心神耗弱状態にあった可能性を考える。

距離が遠くなればなるほど、このバイアスは弱まって、ただの知人であれば、相当に冷静に判断をするだろうと思います。人を殺したことで相談されたことはないですけど、恋愛相談でも「それはおめえが悪いな」とはっきり言うので、「私をわかってタイプ」の女子は二度と相談してきません。わかんねえもんはわかんねえ。

他人と正確に比較することは難しいですけど、私はバイアスのかかる範囲が比較的狭く、程度が薄いのだと自覚しています。集団に対する執着が薄くて、帰属意識が生まれにくいのです。

※以下に出てくる中野タコシェに行った時に販売されていた駕籠真太郎の色紙。あれはお買い得。

 

 

「うち」という言葉

 

vivanon_sentence私にも会社員の時代があるのですが、「うちの会社」とは言わない。意識してそうしていたところもあるのですが、「うちの会社」ではなく、社名で言います。「うちの会社」「うちの社長」と言うしかない状況もあるのですが、できるだけ使わない。

TOKYO AIDS WEEKに知人の大学生が来ていて、中野のタコシェに行くというので、一緒に行きました。プロードウェイにある雑貨屋みたいな本屋みたいな店です。私は過去に対する執着も薄くて、思い出話をすることがあまりないため、昨今私がタコシェの創設者であることを知らないのもよくいて、彼も知らなかったのですが、タコシェをやっていた頃も同じで、「うちの店」とはあまり言いませんでした。

ただ、「うち」という言い方をするしかないこともあります。たとえば客に「こんな雑誌を探しているんですが」と聞かれて、「うちでは扱ってません」と答える。その店のレジ内にいるのに「タコシェでは扱ってません」と言うと、別の店かのようです。メールであれば「当店では」でいいのですけど、対面で「当店」と言うと、ちょっと硬い。

という状況もありましたが、店の外で「うちの店」という言い方をすることはほとんどなかったと思います。外で同じことを聞かれたら、「タコシェでは扱ってない」と店名で言います。

他人がそう言っているのはどうとも思わないのですが、私が「うち」という言葉を使う範囲が狭いことと、集団に対する帰属意識が薄いこととはたぶん関わっているのだろうと思います。

 

 

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