松沢呉一のビバノン・ライフ

EEOC(米雇用機会均等委員会)からカトリーヌ・ドヌーヴまで—セクハラって何?[1]-(松沢呉一)-3,601文字-

セクハラの定義拡大の問題は「ビバノン」ですでに書いています。

以下参照

 

セクハラとアルハラ—下戸による酒飲み擁護 11

都議会の性差別野次(セクハラ野次に非ず)を振り返る—下戸による酒飲み擁護 12

「セクハラ」という用語を堕落させた人たち—下戸による酒飲み擁護 13

 

これらは長いシリーズものの途中に挟まっているので、あんまり読まれておらず、独立させてもう少し詳しく書いておくことにしました。細かくなっているし、あちらに書いていないことも書いてはいますが、以下はこの3本と相当重複していて、趣旨も一緒なので、あっちを読んだ人は読まなくていいかと思います。

 

 

 

極端と極端の間に答えはある

 

vivanon_sentence映画界を中心に性暴力被害の告発ムーブメントに対して、フランスの女優や作家たちが反発の公開書簡を発表したことが話題になってますね。

以下は1月10日付「時事ドットコム」より。

 

 

 

 

この公開書簡に書かれた危惧自体は理解できます。とくに女を「保護されることを求める大人の顔をした子ども」として扱う結果をもたらすという指摘。

誰かに口説かれたところでうまくかわせばいい。イヤなことはイヤだと言えばいい。そういう生き方をしてきた女たちにとっては、「女は意思表示もできないかよわい存在。男と対等に同意ができる存在と見なさず、子どもや人形と同じ扱いをすべき存在」とする見方を固定しかねないと危惧するのは当然かと思います。

この記事では、公開書簡は「男性側を擁護した」となっていて、その側面もあるのですが、この流れで女が今まで通りの地位に貶められることに対する危惧が表明されており、むしろ、そこに重きがある印象を受けました。

しかし、「その通り」と言い切れないのは、日本語訳を見た限りでは、レイプのような犯罪を除外しつつ、あたかも一連の「#Me Too」の動きを全否定しているととらえられるからです。「イヤです」と言っているのにしつこく繰り返されたり、拒否したことによって不利益を被った場合は、外に向けて告発をしていい。それを否定することもまた「女は黙りこくるしかないペットのイヌかネコのような存在」という扱いを固定します。もっと丁寧にやるべきでした。

いつものこととも言えて、人は熱狂の中ではバランスを失って行き過ぎることがあります。その熱狂を利用して自分の目的を達成しようとするマウント組も出てきます。このところ書いていたことにも通じますが、その行き過ぎをセーブできなくなった時、熱狂は反発や危惧を生みます。反発をする側も行き過ぎを戻そうとするあまり全否定に走り出す。

そうこうするうち、「まあまあ、どっちも落ち着け」という冷静な人が出てくるパターン。

※結局、カトリーヌ・ドヌーヴは謝罪。これは否定されるべき行為の被害者に対する謝罪であり、危惧の部分については今まで通り。つまりは、行き過ぎを是正したものです。だったら、最初からそうすればいいのですが、そうしていたらこうも話題になっていない。どちらかの極端に人は食いつくからです。

 

 

私のスタンス

 

vivanon_sentence私は最後のスタンスから、Facebookに長い文章を投稿。口説いただけで性犯罪者扱いされたのがいたんだったら、それは不当。しかし、権力を使ってしつこく口説いてきたり、断ったら不利益を受けたりしたのもいるんだろうから、それも不当。全否定も全肯定もできないんだから、ひとつひとつ検証して判断していくしかない。

というのが私の投稿。このスタンスは実行が面倒臭くて効率が悪い。ひとつひとつ見極めをするためには見識ってものが必要です。自身も問われてしまうので、もっとも受けない。わかりやすさや勢いってもんがないのです。

人々は簡略化された極端に惹かれる。サッカーや野球の試合で、「まあまあ、どっちも落ち着け。引き分けでいいだろ」という姿勢は受けないのです。

でも、白黒つけるためにやるスポーツと違って、たいていのことはこの間にしか正解はないと思います。他者に通じない定義をふりかざしあっても不毛であって、本来、セクハラという概念が出てきたのはなぜなのか。何を救済し、解決するものだったのか。どういう定義なのかを面倒でも確認して判断していくしかないのです。

そしたら、ここに知人がコメントをしてきて「ハリウッドで起きたやつは全部アウト」と書き、私の投稿を根底から否定しました。その根拠を問うたら、「プロデューサーと役者という立場で充分」と答えてきたので、もうどうしていいのかわからない。お手上げです。

彼に限らず、今から38年も前にそれなりに考えられ、普遍性のあるガイドラインが出てきて、そこから微調整が加わっていくつものガイドラインが出てきて、日本においても民事裁判の蓄積がなされていることをわかっていない人たちってけっこういるのかも。

だから、そこから飛躍した定義が一方で流布してしまい、自身の思いつきがとてつもなく価値のあるものに感じられる。

そこそこ安定した中でのブレはあるし、際どい部分もあるのだけれど、公的なもので、権力のある男に迫られたことをセクハラだと告発したら無条件でセクハラになるなんて定義はひとつもない(学校はいくらか特殊で、こういう定義が許される事情があります。これについてはのちほど)。合理性が担保されたルールが定着しつつあって、自由気ままで無防備な定義が成立する余地はないのです。当たり前。そんな危険な定義があっていいわけがない。でも、一般には流通しちゃっているのよね。

 

 

性差別発言がセクハラに見える日本社会

 

vivanon_sentenceあるいは定義なんてものはないに等しく、ただもう気に入らないものにセクハラと命名する人たちがいます。私はいちいち「セクハラじゃないだろ」と指摘しますが、そのゆるみまくったセクハラという言葉の典型が都議会での「セクハラ野次」という言葉でした

労働者や学生個人に対して、上司や教員など権力のある立場の人がその立場を利用して性的な要求をすることや、それを断った時に制裁をするのは不当というのがセクハラという考え方が出てきた理由ですね。つまりここで守られるべきは個人です。法律で言えば個人的法益のルールです。本人が「なんとも思いません」と言えば話は終りです。

しかし、都議会の野次は性差別が問題とされる内容です。つまり社会的法益に反するものです(性差別発言そのものを取り締まる法があるわけではないので、社会的利益とすべきかも)。言われた本人がどう思おうと、本人以外の人が批判していい。

さて、あの野次はどっちの問題ですかね。後者でしょ。

この両者は大きく違うのですが、メディアを含めて、多くの人がその区別さえできなくなって、個人の問題にしてしまいました。

海外でもセクシュアル・ハラスメントの定義拡大、範囲拡大がなされている例がありますが、この時の報道では、海外メディアはセクシュアル・ハラスメントという言葉を使用しておらず、性差別発言としていました。あれがセクハラに見えるのは日本特有の現象です。日本がもっともゆるゆるでだらしがないのです。その分、危険な状態とも言えます。

そのおかしさに私がすぐに気づいたのは、セクハラの定義について考え続けてきたキャリアのおかげであります。

 

 

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