松沢呉一のビバノン・ライフ

他者の自由を侵害しないために—セクハラって何?[7](最終回)-(松沢呉一)-3,438文字-

「意思表示をしよう、意思表示を尊重しよう」で話はおしまい—セクハラって何?[6]」の続きです。

 

 

 

プライベートの領域を守るために

 

vivanon_sentence公的な基準にも幅があります。裁判の判決にも幅があります。その幅の中での新たな定義はあり得るとして、「された側がセクハラと思えばセクハラ」「不快だと思えばセクハラ」「同意していても、あとになって“断れなかった”と申告すればセクハラ」「上下の関係がありさえすればセクハラ」みたいなアバウトな定義を掲げることの意味はない。そうすれば自分が都合がいいって意味しかない。ただのエゴです。

たしかに「合意があろうとなかろうと、上司と部下の関係には無条件に権力関係が生ずる以上、その間の性的行為はすべてセクハラ」としてしまえば判断は楽でしょうよ。

それに基づいて、第三者が「中村部長と部下の原田さんがラブホに入るのを見ました」とセクハラ相談窓口にチクればセクハラ認定されるようにすればいい。なにしろ女は意思表示ができない子どもや人形、イヌやネコと同じため、イヤイヤ中村部長に従っているに決まっているんです。んなわけないですが。

なぜそうしないのかと言えば、個人の自由が制限されるからです。セクハラの拡大解釈をする人たちはまさにそれを狙っているのではないかと疑うしかありません。だから、宗教か道徳かセックスフォビアが行動原理になっている人たちだろうと私には思えます。

上司と部下が合意の上でセックスをしたり、恋愛をしたりする自由はあるのです。現に多数の人が部下や上司とそういうことをして、結婚もしている。そのすべてを否定することなんてできないでしょう。あるいは結婚したのちに、「結婚を断れませんでした。セクハラです」と言い出しても認めるのか?

もしプロデューサーと女優、上司と部下というだけでセクハラだと断じていいのなら、この考え方は際限なく拡大します。年齢差があったらアウト。そもそも男と女は不均衡なのだから、男女のセックスはすべてレイプというドウォーキン流の考え方からすると、男女の恋愛禁止、セックス禁止というルールに至ります。バカバカしい。

※本文と関係なくストリートビュー探訪が続きます。女子大では日本女子大が敷地内に入れます。メッチャきれい。面白味はないですが。この南側に寮があって、そこはキャンパスと違って鬱蒼と木が繁り、池もあり、ヘビがいます。フェンスから外に出てくることがあって、目撃証言多数。残念ながら寮はストリートビューで入れず。

 

 

会社は社員のプライベート領域に介入できない

 

vivanon_sentence会社員同士がつきあう場合、会社は知り合ったきっかけに過ぎない。社内でするのもいますけど、原則セックスは会社の外でなされます。営業回りのついでにラブホに立ち寄るのもいますけど、原則プライベートな時間になされます。社内でしたり、業務時間内にしたりすることは処分されていいとして、それが上司と部下であっても、合意のもと、個人の領域で何をしようと自由。

「誰とつきあうな」「誰とつきあえ」「こんなセックスしろ」「あんなセックスするな」なんて私的領域に会社が踏み込むことは不当です。中国共産党はかつて結婚相手も党が決定していたらしいですが、そんな社会がいい社会のわけがない。

 

 

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