なぜ一人称で書かれるのか—女子大生がヤバイ![4](最終回)- (松沢呉一) -3,243文字-
「女子大生の「僕」「俺」という一人称—女子大生がヤバイ![3]」 の続きです。
一人称と三人称
もし私が同じ授業の講師をすることになったら、早い段階で人称について説明をすると思います。私に限らず、多くの講師はそうすると思うし、この著者も説明をしなかったとは思いにくい。しかし、それが作品に反映されていないのは、具体的にそれを実践するところに至ってなかっただけかもしれないし、いくら教えたところで三人称を使いこなすのは難しいからかもしれない。
とくにこの講座、とくにこの大学、とくに女子ということでなく、一般にそうじゃなかろうか。
私も小説を書けと言われ、短時間で書くとするなら一人称になると思います。エッセイの延長で書けますから。自分のこと、自分に見えることだけわかっていればいいのが一人称。
しかし、これは慣れであって、三人称の小説を書き慣れている人なら三人称で書くのもいそうです。
同じく慣れの問題として、雑誌の無署名の記事のように、「私」を使わない原稿だったら私も容易に書けます。
雑誌の無署名原稿は、言い換えると編集部原稿ですから、書いている主体は、明示されていないだけで、「編集部」「本誌」「本誌記者」であるのに対して、小説の三人称はいわゆる神の視点です。その中の登場人物に視点が貼り付いているとしても、書いているのはその上から眺めている人ですから、雑誌の無署名原稿を、小説と同じ三人称の文章とするのは適切ではない感触があるのですけど、「私」を出さない視点を得るって点では通じていて、ここでは区別せず、三人称の文章としておきます。
※Thomas Chippendale「The Gentleman and Cabinet-maker’s Director: Being a Large Collection of . . . Designs of Household Furniture in the Gothic, Chinese and Modern Taste . . .」
署名原稿と無署名原稿
小説の三人称はよくわからないのだけれど、私がライター講座の講師になったら、一人称、三人称のどちらでも書けるように指導すると思います。客観と主観を峻別するためには三人称の視点を早いうちに獲得した方がいい。
「私」を出していい署名原稿においても、事実の記述を入れ込む時の視点は三人称だったりします。ここでは私情を差し挟まないことで客観性を保つ。
一人称の文章だけを書き続けてきた物書きもいるでしょうけど、無署名原稿も署名原稿もどちらも書く体験をしているライターの方がずっと多い。ライターはどちらも使い分けられる人が多いはずで、人によっては署名原稿を書くことがほとんどありません。
慣れれば使い分けることに苦労はさほどないのですが、署名原稿だけを書いてきた人が無署名の原稿を書く際に、あるいは無署名原稿だけを書いてきた人が署名原稿を書く際に戸惑うこともあるようです。署名原稿だからと言って「私」を出さなくてもいいわけですけど、雑誌の原稿では書き手のキャラを出すように求められることがあります。それがなかなかできない人がいます。これは習慣ですから。
亡くなったライターの石田豊さんがたしか署名原稿より無署名原稿の方が書きやすいと言っていたと記憶します。事実だけを書いていけばいいので。
どのスタンスから書くのかは文章術の基本みたいなものですから、これを早い段階で会得できるようにした方がいい。
※石田さんはPC関連のマニュアルの執筆が多く、著書のほとんどもそっち方面です。『もったいないのココロ』は異例の一冊。
人称とモード
もうひとつ、誰に向けているのかについても私は早い段階で意識するように教えると思います。
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