松沢呉一のビバノン・ライフ

「私」を主語にすることで自由な主体を獲得する—「私」を主語にできない問題[7]-(松沢呉一) -3,393文字-

僕たちが、はじまる—「私」を主語にできない問題[6]」の続きです。

 

 

 

 

他人が自分と同じだと思うから不安になる

 

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「私」とすべきところで「女は〜」「男は〜」としてしまう癖があることと、他者の性のありように介入しないではいられないこととはおそらく関係しています。

なぜ他者の性を否定しないではいられないのか」シリーズを参照していただきたいのですが、「私はこれでいいのだ」という確信が得られていない。南智子が言うように、いかに社会の規範に外れていようとも、それを「私」で公言できる人は強く、属性に逃げ込む人は弱い。男であっても女であっても同じです。

個が確立できない人にとっては、「私」というアイデンティティと重なる「女」あるいは「男」という同じ属性を持つ存在が、自分ができる範囲を超える行動をとると「私」が揺らぐ。

時々聞く話ですけど、目の前に同性愛者が現れると怒り出す人がいるらしい。「同じ男」「同じ女」と思うから腹が立つんじゃないですかね。「自分とは違う男」「自分とは違う女」と思っておけばいい。現に他人は自分と違うっしょ。性別が同じだからって、全部が同じはずがない。

「同じ男として〜」「同じ女として〜」「同じ日本人として〜」という発想はやめた方がいい。自分を基準にして「男だったら〜」「女だったら〜」「日本人だったら〜」と仮想して、そこからはずれる人たちを否定するのもやめた方がいい。

「自分の意思でやってます」と堂々語るセックスワーカーに対して怒り出す人の話も聞きます。「この人はそうなんだ」と思えばいいだけなのに。「おっぱい募金」についてもそういう人たちがわらわら湧いてきましたね。

蔑視することでそれをごまかしていたのに、自らの意思でやっていると語る存在が目の前にいると実存が破壊されるような感覚になる。そこで今度はその意思を否定して「男に言わされている」などと妄想を広げる。相手の意思を尊重できないセクハラオヤジとまったく同じことをやっていることの自覚もできない鈍感さ。

個人が確立されていれば「同じ属性でも、私は私、人は人」と割り切れるはずですが、アイデンティティが属性込みになっている人たちはそれができない。リベラリズムともっとも遠いところにいる人たちです。

※この件についてもっと詳しく書いているのであれば読みたいと思って、Michèle Riot-Sarceyで検索したら、単著も共著も多数出てきました。すべてフランス本国のもので、一冊も邦訳は出ていませんでした。フランス語が読める人は彼女の本を片っ端から読んで、10分くらいで解説してちょ。

 

 

自己と他者、個人と社会が区別できない人たち

 

vivanon_sentence売る売らないはワタシが決める』の座談会にあったように、「売春を社会がどうとらえるのか」という議論をしている場にしゃしゃり出て、「私はできません」と言い出すのもいます。この場合は「私」という主語で語れていますが、その「私」の感覚を他者が共有してくれていないと不安になるという意味では同じです。

「はっ? あなたのマンコについて論じているんじゃないんですけど」と当惑するしかないのですが、彼女にとっては「私のマンコ」と社会の問題がイコールとしてとらえられてしまうわけです。「私のマンコは社会のマンコ」という感覚は、「世界のマンコは自分のマンコ」ととらえられる男によるパターナリズムと対になってます。「自分の娘にはやらせたくない」と言い出したりね。

「私」が確立されていないため、「私と他人」「個人と集団」の区別がつかず、「私と社会」「私と家庭」というフェイズの違いも区別できず、宗教的道徳、家父長制道徳をふりかざす人たちを「糞フェミ」と呼ぶのにためらいはありません。

 

 

主語を「私」にすることで自由になれる

 

vivanon_sentenceでは、どうしたらいいのか。

 

 

 

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