松沢呉一のビバノン・ライフ

女子校に意味を見出す女子校出身者—勘で読んだ辛酸なめ子著『女子校育ち』(3)- (松沢呉一) -3,170文字-

自宅にヘリのあるお嬢様—勘で読んだ辛酸なめ子著『女子校育ち』(2)」の続きです。

 

 

 

 女子校の利点

 

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前回書いたような分類がある中で、おおむねどの女子校にも共通している利点は、共学では男がやってしまうことを、女子校では女子がやらなければならないってことです。力仕事も女子がやる。汚れ役も女子がやる。弱みを見せると男子が助けてくれる共学と違い、すべて女子がやる。

これはしばしば「女子校には男の視線がないから」と説明されます。たしかに共学だとクラス内の男の視線を意識することはあるでしょう。逆に男は女の視線を意識してカッコつけたりする。互いに抑圧的に働く。

力仕事や汚れ役は男の仕事ですから、女にはやらせない。まとめ役も男がやる。男にとっては好意だったりもするわけですが、好意が他者の選択を潰し、機会を奪う。パターナリズムはここから始まっていて、同時に「女は女らしくない力仕事や汚れ役をやってはいけない」という規範になっていきます。

「公立共学校育ち」の私の記憶では、小学校だとそうでもないですが、中学以降、責任ある立場はどうしても男子がやりがちです。生徒会長、級長、班長、部活の部長など。

男は男で、グループになった時に女を前にええかっこしいをしたがるし、やりたくなくても男の自分がやらなければならないような気になってしまいます。

女子はトップに立って目立つと損をすることをその頃までには学習をしてしまうので、自分にその資質があると思っても率先してやろうとしない。周りも勧めない。せいぜい書記のような役割や副代表の役割をあてがわれるだけ。これも「やってはいけない」という規範として成立していきます。

統率する役割をやらないから学習機会も得られない。学習機会の差によって、社会に出てもリーダーにはなれない。

男女が混じると、社会の性別による役割やヒエラルキーが十代でも導入されてしまい、内面化もされてしまうわけです。パターナリズムが横行し、そのパターナリズムをよきこととして受け入れる女子も出てきてしまう。

社会に出ても、リーダー資質、リーダー経験がないため、政治家なんてなろうとしないし、周りも適性があると見なさない。見なさないのは根拠があるわけです。

※「女言葉の一世紀」シリーズで何度か取り上げている太田英隆 (竜東) 編『男女学校評判記』には日本女子大学附属女学校、学習院女学部、東京女学館、立教女学校、神田共立女学校、東洋英和、普連土女学校、跡見女学校など、現存する学校の数々が並んでいて、実践女学校の項を読んでいたら、下田歌子校長がたびたび三面記事を賑わしていたことが批判されてました。校長自らスキャンダル。下田歌子は一生独身だったと思うので、いいんじゃないですかね。

 

 

女子校はレディースと一緒

 

vivanon_sentence暴走族だとレディースがあるので、女がリーダーになれるのと同じで、女子校はリーダーを育てる。カツアゲやバイク整備も女がやらなければならない。パンパンのグループでも同じ。男娼がいる場合は男娼がボスになってしまいがちですが、男娼がいなければリーダーは女。裏切り者がいたら、内部でリンチ。

女子校はレディースやパンパンのグループと一緒だと考えると、私の場合は楽に把握できるようになります。

鴎友学園のカエルの例では、男だけでなく、女の視線も女に対して抑圧的に働きます。とりわけ母親です。たとえば娘が家でカエルの解剖をしていたらやめさせるのは母親だったりします。自分が気持ち悪いからです。

母親は女子大を出て腰掛け就職をした世代から次の世代に移行しているので、すでに母親が女子大を出て専業主婦になっている層は減ってきているはずですが、お嬢様系の家庭ではそういう親はまだいるでしょう。「女の子なんだから、無理していい大学に行かなくても」「お金の心配はないんだから、無理して就職しなくても」なんて言ってしまう。

女子大的思考は、そこから抜け出そうとする娘にとっては邪魔です。

それを外せるのは、そのことをわかった上で意図的に規範を外す女子校です。わかっていないと今までの固定観念をなぞり、強化することにもなりかねない。

 

 

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