松沢呉一のビバノン・ライフ

社会を騒然とさせた十八歳の自殺—浜田栄子はなぜ死を選んだのか(1)-(松沢呉一)-3,572文字-

 

浜田栄子って誰だ?

 

vivanon_sentence女言葉の一世紀」のため、国会図書館のデジタル・アーカイブで読んでいた本の中に「浜田栄子」という名前が出てきた。ただその名が書かれていて、説明は何もない。当時は説明する必要もなく知られていた人物なのだろう。その名前が気になって検索してみた。

朝日新聞を経て帝京大教授となった羽原清雅の連載「落穂拾記(5)~「藪の中」の自殺騒動~」が今現在ネットで簡単に読めるものとしてはもっとも的確にまとめられたものだろう。

概要としてはこれで充分なのだが、さらに詳しいことを知るため、国会図書館で検索して調べているうちに、ぼんやりと記憶が甦ってきた。あくまでぼんやりである。

おそらく「心中する娼妓を医者が語る-「吉原炎上」間違い探し 24」に出てくる磯村英一著『心中考』(講談社・昭和三四)で、心中ではない単独の自死の例として出ていたのだと思われ、またそれ以外でも目にしていたのだろうが、詳細はまったく覚えていない(重要なヒントが出ている可能性があるので『心中考』は読み直したいのだが、すぐには出てこない)。

落穂拾記(5)~「藪の中」の自殺騒動~」で使用しているのは当時の「東京朝日新聞」の記事である。「東京朝日新聞」に限らず、連日新聞はこのことを書き立てていて、雑誌も特集を組むくらいに大きな話題となった。そのため、この時代の人たちはその名前を見れば説明なしで誰なのかすぐにわかったわけだ。

当時の民法では一定年齢まで結婚には親の承諾が必要だったため、親の反対によって結婚ができず、自殺や心中を選択することが少なくなかった時代に、なぜ栄子の自殺はそうも大きな話題になったのか。

※浜田栄子。野口亮著『逝ける栄子の為めに』(大正十年)より

 

 

父は近代産婦人科学の祖・浜田玄達

 

vivanon_sentence新聞記者から婦人雑誌記者になった水島尺草著『恋は思案の外 : 人生哀話』(大正十年)、同じく雑誌記者か新聞記者であろう椒魚生著浜田栄子恋の哀史(大正十年)と合わせて、さらに詳しく浜田栄子の一生をまとめると、以下のようになろう。

★のついている箇所は、資料によって書いてあることが違っていて、この段階では確定できていない点、あるいは疑問のある点。のちに判明するものが含まれている。

名前が並ぶと混乱するので、浜田家の人物は下の名前だけ、それ以外の中心人物は苗字だけ、尾越辰雄は立場を明確にするため、「尾越弁護士」と呼称する。

 

浜田栄子は、近代的産婦人学を打ち立てた刀圭界(医学界)の重鎮、浜田玄達(1854〜1915)の次女として生まれた(★長女としてあるものが多いのだが、長女は藤子。藤子は明治十四年に生まれ、同十八年に死亡)。月日までは不明だが、栄子の生年は明治三六年(1903)だと思われる。

玄達は熊本県宇土郡大岳村の出身で、東京帝大卒業後、熊本医学校の教授等を経てドイツに留学、近代的産婦人科学を学んだ。

帰国後、東京大学産婦人科主任教授の任に就いた。明治三二年、駿河台に東京産婦人科病院を産婆学校と共に発足させて院長に就任(★この前から東京産婦人科病院は存在していて、明治三二年から四年の間に玄達が病院の経営権を得た可能性もある)。

妻の捨子(★公的性質の文書ではステになっている)も同じく熊本県の出身。長男は捷彦(★「としひこ」だろうが、「かつひこ」とルビが打ってあるものも見られる)。その十六歳下が栄子であり、玄達が五十歳の時の子どもである。捨子の生年がわからないのだが、おそらく栄子は捨子が四十代になってからの子どもである。

栄子は幼い頃から成績がよく、天才とまで言われ、東京女子師範学校附属高等女学校付属小学校二年(前に書いたように、これが正式名称だが、長いので、以下、通称として戦前から使用されていた「お茶の水女学校」とする)の時、明治天皇夫人である昭憲皇太后が同校を訪れた際には生徒を代表して「御前講読」をしている。歓迎や感謝の文書を読み上げる担当であり、成績優秀で、見た目もよく、家柄も申し分ないということだったのだろう。玄達が宮内庁の指定医だったこともこの選抜には関係しているかもしれない。

当時、お茶の水女学校から師範学校に進むのは年間数名しかいない狭き門であったが、栄子であればそれも可能だったはずだ。

しかし、栄子が幼い頃から、浜田家は兄の捷彦のことで軋み始めていた。捷彦は栄子と違って出来が悪く、それでも家の力か、慶応大学まで進むのだが、母の捨子に金をせびり、それでも足りず家の金を持ち出しては仲間を引き連れてカフェーに入り浸る日々。放蕩息子の典型である。

これは愛情を子どもに向けなかった両親に対する反抗だったという見方がある(★後述)。玄達は忙しく、家庭を顧みない。捨子は物質欲、金銭欲が強く、子どもに愛情をもって接することがなく、栄子も乳母に育てられて、扱いに慣れない捨子に抱かれることを嫌がったらしい。

金に執着する捨子への反抗としては放蕩が相応しかったわけだ。その心労のためか、捨子はやがて精神を病み始める。

※浜田玄達著『産婆学 上巻』(明治二四年)

 

 

浜田玄達死去

 

vivanon_sentenceそんな状態の中、大正四年(1915)、玄達は胃癌で死去。享年六二。残した財産は百万円と言われる。いつものように現在の価値に換算するのは難しいのだが、今で言えば十億円から三十億円に相当しよう。

 

 

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