松沢呉一のビバノン・ライフ

落ちこぼれないフィンランドの教育—男女別学肯定論を検討する/第二部(2)(松沢呉一) -3,296文字-

フィンランドとの比較—男女別学肯定論を検討する/第二部(1)」の続きです。

 

 

 

男女の差ごときが問題になるはずがない

 

vivanon_sentenceフィンランド方式では、当然、クラスには勉強ができる子とできない子が共存しています。貧乏な家庭の子も金持ちの家庭の子もいる。海外で生まれた子もいますから、それらに比べれば男女差なんて問題にならない小さな小さな差でしょう。

どんな国においても、勉強ができる子とできない子との差、その国で生まれ育った子とよその国から来た子との差より、男女差の方がずっと少ないんですから、その大きな差さえも含みこんでいく覚悟のある国において、男女の差なんて問題になるはずがないのです。

なぜ無駄が多いのに、そんな方法をとるのか。それが社会だからです。

家庭が貧しいのも、ジャンキーの子どもも、車椅子の子どもも、フィンランド語が拙い移民の子どもも、宗教のために頭にベールをしている子どもも同じ教室にいるってことです。効率を考えたらそれぞれすべて別の学校、別の教室に分けて、別の教育をした方がいい。しかし、極力、フィンランドではそれをせず、同じ教室で共存させる。

ここには社会がそのまま存在していて、均質な学校から、多様な社会に出て戸惑うことはない。さまざまな人によって社会が構成されていることを体験的に知るわけです。

必然的に下位にレベルを合わせることになるため、勉強が出来る子は退屈をして、窓の外ばかり見ることになります。事実、そのために学校に行きたくなくなる生徒がいるそうです。そのため、飛び級があります。理解が容易だから退屈する。容易ではなくなると真剣になる。その制度の中で優秀な生徒はその優秀さにともなった選択が可能です。

 

 

負担すべきコストを切り捨てて成立しているエリート別学校

 

vivanon_sentenceエリートを作り出すのになぜ男女別学が向いているのかについては、「勘で読んだ辛酸なめ子著『女子校育ち』」シリーズで見た通りで、コストの問題だと私は見ています。

男女別学はコストをかけられない教育制度の中での最大限コスト削減をするという考え方です。均質性を高めた方がコスト削減ができる。仮にまったく同じ能力の複数の人間を集められたなら、教え方はひとつでいい。何人生徒がいようとマンツーマンの家庭教師と同じです。日本においてそれに近づける方法が私立の男女別学です。

対してフィンランドの方法は途方もなくコストがかかる。家の経済程度がバラバラなので、授業料を無料にすることで経済的負担をなくして、その点については均質にする。能力がバラバラの生徒が集まっているので、できるだけ生徒の人数を減らす。フィンランド語ができなかったり、障害があるなど、極端にハンディがある場合はアシスタントがケアをする。このそれぞれにコストがかかります。

誰にでも教育機会が与えられるようにするってことですから、これらは本来社会全体が負うべきコストです。国民もそれを理解しています。そのコストをフィンランドでは公立学校が等しく負っています。エゴに走る私立が存在しないことがこれを成立させています。

負担すべきコストを切り捨てて効率を高めるのが日本の男女別学であり、効率を求めず、その分、税金を投下するのがフィンランドだと言えましょう。

 

 

フィンランドがコストをかけない部分

 

vivanon_sentenceしかし、フィンランドでは生活態度みたいなところにはコストをかけていない。そんなところまで均質にする必要はないし、均質にしようもない。

学校の外での行動を監視するなんてことはしない。髪型や服装チェックにもコストをかけていない。恋愛関係、セックス関係になるのがいても放置。北欧でありますから、その分、正しく性教育をやっているでしょう。

 

 

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