松沢呉一のビバノン・ライフ

家出、同棲、妊娠—浜田栄子はなぜ死を選んだのか(2)-(松沢呉一)-3,623文字-

社会を騒然とさせた十八歳の自殺—浜田栄子はなぜ死を選んだのか(1)」の続きです。

 

 

 

捷彦と芸妓・音子の結婚

 

vivanon_sentence大正五年(1916)、野口は早稲田大学を卒業。就職はせず、株の売買で生計を立てていた。相場師である。就職口もあったのだが、条件が折り合わなかった。候補は二社あったのだが、一社は外資系で、外資系は外国人社員の質が悪いのでやめた方がいいと親族から言われ、もう一社は月給が三十五円と安過ぎた。これでは下宿で一人暮らしをすることもできない。

たしかに当時の大卒としては安過ぎて、薄給を代表する女工でさえも、三十五円はあり得る金額。高井としをが女工としてもっとも稼いでいた時で月に均せば五十円以上だったと思われる。こんな時代に、法的権利がないにもかかわらず、細井和喜蔵が亡くなって毎月数百円単位の印税を受け取って細井和喜蔵の墓も建てずに短期間に全部浪費しておいて、「もっと寄越せ」と騒いだのが高井としをである。

それはともかく、野口はこの年から、兵役に赴くことになっていたため、就職を先延ばしにした。大学の時から株に興味があり、自分の知識を試してみたいとの思いもあって、兵役までのつなぎとして相場師を選択。これも浜田家からは疎んじられる理由になったのだが(★後述)、浜田家ではこの頃、大きな騒動が持ち上がっていた。

玄達が亡くなって以降、捷彦の足は花柳界に向き、やがて新橋の売れっ子芸妓・音子(本名・辰子)といい仲となり、結婚を誓うようになる。音子とともに身を隠したのちに帰宅し、音子を身請けをして結婚をしたい旨を母の捨子に告げるが、捨子はこれを許さず、「家に猫を入れるわけにはいかない」と猛烈に反対した。

親族や相談役が集まって協議し、あくまで捨子は反対したのだが、捷彦と音子との結婚を認め、財産を放棄することを条件とすることになった。

捷彦は財産などいらぬとして、これを承諾、その代わり、五万円を支払うことを要求。遺産額からすると、その一部である。また、捨子側は毎月七百円を二人に送金し続けることを条件として提示した。当時は円が安かったため、米国ではこの数分の一の価値しかなかったろうが、大卒会社員の年収分に匹敵する額を毎月送金するというのだから、いかに浜田家には金があったのかわかろう。

勘当はされておらず、引続き戸主は捷彦であり、それを嫌って捨子は栄子とともに分家し、病院と自宅の土地建物の名義は栄子になったのだが、栄子はしばらくの間、そのことに気づかずにいた。

大正五年(1915)、捷彦と辰子に戻った音子は入籍して、その年の暮れに二人で米国に留学。

※浜田家の墓を示す石。ここに捷彦も眠っている。これについても後述。

 

 

栄子と野口の決意

 

vivanon_sentence野口亮は大正六年(1917)から一年間志願兵として郷里熊本で兵役に赴いた。この間に栄子とは手紙のやりとりが続き、二人は互いの気持ちを確かめあっていた。

その間に栄子には縁談が持ち込まれる。病院を引き継ぐ婿養子を迎える計画である。相手は玄達が相談役として指名した一人である緒方正規博士の次男である医学生の益雄。

しかし、すでに野口に思いを寄せていた栄子はこれを拒否。栄子はさほど目立つ性格ではなかったようだが、気が強かったのだ。相手にはまだ若いからという理由で断った。

一説によると、この前にすでに野口と栄子の間には肉体関係があったとも言われる(★後述)。始まりは栄子が十三歳の時である。たしかに栄子は早熟で、学校の同級生の女子たちといかがわしい行為に耽っていたとの噂もある。

お茶の水高等女学校の藤井利誉教諭がその裏付けになるような証言をしている。尋常小学校の低学年の頃は口数の少ない品行方正な子だったのが、学年が上がるとともに品行が乱れてきて、高等女学校に入ると、わがままでだらしがなくなったと藤井は新聞で語っている(★後述)。

ちょうどその頃、野口と深い仲になっていたのだとすると辻褄は合う。

 

 

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