松沢呉一のビバノン・ライフ

「そんなバカな!」はお前のことだ—竹内久美子のデタラメ(上)-[ビバノン循環湯 383] (松沢呉一)-6,091文字-

Facebookをあんまり見なくなっている昨今ですが、たまたま竹内久美子の駄論についての批判を見ました。

批判されていたのは以下。

 

 

 

※2018年3月28日付・産経ニュース「『日本型リベラル』の真相は何か  動物行動研究家 エッセイスト 竹内久美子」より

 

 

日本型リベラルというものを仮定するのはいいとして、その論拠がデタラメすぎて、どこから突っ込んでいいのか考えあぐねる、ある意味、もっとも強靭な駄論。

以下は笑いどころです。

 

こういう「日本型リベラル」は、政治や文系の研究分野にのみ存在すると思われているようだが、そうではない。私が長年学んできている、動物行動学、進化生物学の分野にも存在する。しかもその言論活動の活発さのために、あたかもこの分野を代表する考えであるかのようにとらえられており、大いに迷惑している。

 

どんな研究者も、この人に「迷惑」と言われたくはないでしょう。だいたい「学んでいる」と言っても適当に本をつまんで利用しているだけであって、まだこの人は研究者のポーズをしているのか。現実にそういうハッタリがこの国では有効です。「日本型似非研究者」。私も時々ただの「ライター」では満足できない編集者に「性風俗研究家」といった肩書きをつけられますが、竹内久美子の「動物行動研究家」という肩書きも同じ意味。この人は大学で動物行動学を専攻していても、ただのエッセイストであり、ただのライターです。

Facebookでこれに反応してしまいまして、それをきっかけにかつて竹内久美子を批判した文章を探したら出てきました。この時代のものはたいてい消えているのですが、のちにまとめ直しているので、それが残ってました。改めて批判するほどの熱意はないので、それは他の方々にお任せして、30年近く前に書いたこの原稿を循環しておきます。

これはもともと1990年頃にミニコミ「PAPERS」用に書いたもの。しかし、その号が出ず、「SPA!」の編集者に見せたところ、そのほんの一部を使用することになりました。Facebookに「竹内久美子を最初に商業誌で批判したのは私じゃないかと思う」と書きましたが、この原稿を読んだら、私の前に科学雑誌の書評で竹内久美子の本をこき下ろしたものがあったらしい。その後もその記事は確認していないのですが、ここは「最初に一般商業誌で批判したのは私かも」に訂正しておきます。その後、この原稿は2000年頃、別のミニコミ「ショートカット」に掲載しています。

一部直しを入れてますが、論旨は同じ

 

 

 

竹内久美子とは

 

vivanon_sentence何がひどいって、竹内久美子。本の奥付を見ると、けっこう売れているようなのだが、竹内久美子を知らない人もいるかと思うので、簡単に説明をしておく。以下、著書につけられた略歴である。

 

 

1956年生まれ。79年、京都大学理学部卒業後、同大学院に進み、博士課程を修了。専攻は動物行動学。著書に『ワニはいかにして愛を語り合うか』(共著、PHP研究所刊)、『浮気人類進化論 きびしい社会といいかげんな社会』(晶文社刊)がある。

 

 

竹内久美子の書くことの特徴は、動物行動学、分子生物学の理論を人間の日常レベルの営為に当てはめたことであり、これが受けた。確かに読物としては面白いのだが、ただそれだけ。本は面白ければいいってもんだが、あたかもそれが科学の知見に則ったものであるかのように提出され、そのようなものとして読まれているとなれば話は別である。

彼女は『浮気人類進化論』(晶文社)の前書きでこう書く。

 

 

この本は、動物行動学の一学徒が、人間とはいったい何か、なぜ人間は人間になったのかという大テーマに、野暮は承知の上で取り組んだ結果なのです。

 

 

これを読めば、竹内久美子が書いているのが「科学」「学問」なのだと誤解する人もいてもやむを得まい。中まで読めばそんなものとは無関係の質の悪い与太話でしかないことがわかるはずなのだが、生物学の本など一冊たりとも読んだことのない人だと気づけないのかも。

彼女の著作は、少なからず昨今の遺伝子ブームにひと役買っていて、とりわけ利己的遺伝子について知らしめた功績は大きい。しかし利己的遺伝子説を曲解させたとも言え、なにより、それを人間のレベルに落とす際の論理がデタラメである。

さらにつけ加えておくと、『ワニはいかにして愛を語り合うか』(PHP)は日高敏隆との共著で、日高敏隆は彼女の師匠に当る。日高敏隆の生徒で、京大で動物行動学をやった竹内久美子がデタラメを書くハズがないとの先入観によって、世間は彼女を放置してしまっているのだろう。

もし彼女と同じことを私が書いたら、読者は簡単にその論理の破綻を見いだすはずだ。私の場合はただただ面白ければいいって物書きなので、批判されることもないだろうが、この私でさえ「ひどすぎる」と嘆息しないではいられないのが竹内久美子である。

 

 

単なるデタラメを褒める文化人

 

vivanon_sentence娯楽として面白いので、私は動物行動学や生物学関係の本を暇つぶしによく読む。話題になっているこの人の本を読んでおくべえと思って、初めて読んだのが『そんなバカな!』(文藝春秋)。呆れ返ってしまった。面白い視点があったりもするが、その部分はどこかの誰かの引用であり、著者のオリジナルと思える説は、論理もなにもあったものではない、単なる無茶苦茶。

ところが、この人の著書を批判的に指摘したものを見たことがなく、それどころか、一水会の鈴木邦男を始め、竹内久美子を褒めている人が少なくない(のちに聞いたところによると、科学雑誌でボロクソに貶した書評があったらしいが、私は未見)。

例えばこの本に出てくる「出生率は低下しない」との章を見てみよう。

日本の出生率が低下し、このままでは人口が減って、高年齢社会になるのは避けられない。少ない人数で老人たちを支えられはせず、年金制度、保険制度は破綻し、国力も弱まるとあって、政府も危機感を強めているが、著者は「進化の観点を導入し」「政府が特に対策を立てなくても出生率はあっという間に盛り返す」と書き、出生率の低下を危惧する必要はないという。その論理を要約し、さらに補足すると、以下のようになる。

 

日本の女性の中には、子どもを欲しいとは全然思わない女もあれば、人並みには欲しい、体力の続く限り産みたいというのまでいる。仮に五人の女性がいたとして、うち四人は一人しか子どもを産みたくないという性質を持っていて、一人は四人産みたい性質をもっているとする。この通りに五人が望み通りに出産すると、この五人から八人の子どもが産まれる。一夫一婦として男女十人で八人しか産まれないのだから、出生率は一を切る。これが今の日本の状態だ。

しかし、このうち四人は四人産みたい遺伝子を親から引き継ぐため、計十六人の子どもが産まれる。残り四人はやはり一人しか産まず、計四人しか子どもを残さない。つまり、二代目の八人から(これに異性が必要となるため、計十六人から)、二十人の三代目が産まれる。この二十人のうち十六人は四人産みたい遺伝子を親から引き継ぐため、計六十四人の子どもを産み……。

 

といったように、やがては子どもを欲しくない遺伝子は数字に現れないほどに減少して、たくさん子どもを欲しいと思う遺伝的性質を受け継いだ日本人がどんどん増えて行くために、心配しなくていいのだそうだ。底なしのアホ。学生でもこんなもんは書くまいよ。

 

 

ナチスと紙一重

 

vivanon_sentenceこれが進化論的に導かれる結論だそうだから、私が唱える「オナニー進化説」も相当正しい(センズリすることによって人類は進化したとする私の理論)。

もしこの人の言うことが正しければ、とっくに人類は生める限り生む性質をもった個体ばかりになっているはずである。「産めよ増やせよ」と出産が奨励された時代には、かなりの人が欲しいだけ生んだはずなのだから、あの時にも、遺伝子の淘汰がとっくに為されたはずだ。なのに、何故、そのわずか数世代下がすでに子どもを産まなくなっているのか。

 

 

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