松沢呉一のビバノン・ライフ

あんたの話ウソばっかり—竹内久美子のデタラメ(下)-[ビバノン循環湯 384] (松沢呉一)-6,006文字-

「そんなバカな!」はお前のことだ—竹内久美子のデタラメ(上)」の続きです。

今回私もたまたまFacebookで見て便乗して三十年近く前に書いたものを出してしまったわけですが、あれ以降、今まで放置してきたものを今このタイミングで批判することにためらいもあります。「週刊文春」でずっと連載していて、一度も読んだことがないですけど、あれも読んでいちいち批判をすべきだったかと反省しないではない。「産經新聞だから」「リベラル批判」だから、竹内久美子はトンデモなのでなく、何を書いてもトンデモなのです(ただし、私の記憶では日高敏隆との共著はとくにひどい破綻はなかったはず。あの段階ではまともだったのかもしれないし、日高敏隆がセーブしただけでなく、竹内久美子が大学で学んだ動物行動学の範囲では破綻が起きにくいのかもしれないとも見ています。分子生物学、進化生物学はまた別ジャンルですからね)。このタイミングで竹内久美子を批判するのであれば、同時に「なぜ自分は今まで批判をしなかったのか」についても各自考えた方がいいと思う。じゃないと、その問題のありかを見極めておらず、たんに「産経新聞だから」「リベラル批判だから」で批判しているだけになってしまいます。仮に朝日新聞に掲載されても、ネトウヨ批判であっても、トンデモはトンデモであって、そういうバイアスで批判したりしなかったりはおかしいと気づくべし。「ビバノン」を見ていただければおわかりのように、その点、私はそういうバイアスがゼロではないにしても相当薄いです。

では、後半。

 

 

救いようがない

 

vivanon_sentenceそんなバカな!』から、もう一点、この人の呆れた論を紹介しよう。「ヒンドゥー教ではなぜ牛を食べないか」というテーマである。

牛を飼っていると、蚊が人間よりも牛を刺してくれるため、マラリアにかかる率が減るためだそうだ。ここまでは有り得ない話ではない。少なくとも検討する価値はある。これは、彼女が何かで読んだものらしいが、彼女は自分の見解として、さらにこう書いている。

 

 

牛を大切にするという文化はマラリアという病気を介して遺伝子との共進化を遂げ、インドという暑い国の人々の間に定着したのである。インドの人々は、もしかすると遺伝子のレベルでも、牛やその他の動物に対し、『殺すとバチが当る』『可哀相で殺せない』といった感情を持っているのではないかと考えられるのである。(略)とにかく昔から実行している生活習慣などは、ほとんどがそうだろうし、ある民族の人々が共通して持っているような美的感覚や食の好み、礼儀作法など、感覚や心理に関する事柄も同様に説明できるかもしれない。

 

 

こいつぁ、すげえや。文化は遺伝子に組み込まれるらしいですよ。ひとたび定着すれば、文化として存在する意味はない。遺伝子がそうさせてしまうからだ。

体内の組織は環境によって変化をすることもあるわけで、そこから食の好みが左右されることはあり得る。しかし、そう簡単に遺伝子に組み込まれるとは考えにくい。多くの場合、体の変化も、遺伝子に環境への適応が組み込まれたとまでは言えず、食生活や生活習慣によって潜在的な容量の範囲で変化するに過ぎない。だから、日本人が海外に移住すれば、その子どもはその地に適合した変化をする。それは遺伝子と無関係。

もし遺伝子レベルで生活習慣が組み込まれるのだとすると、日系人はどこにいようと、親に教えられたわけでもないのに、握手をせず、ペコペコおじぎをしてしまうのだろうし、どういうわけか食ったこともないのに、魚を生で食べたくなったりするのだろう。さらに驚いたことには、習ったこともない日本語を突然話しちゃったりもするんだな。

これが竹内久美子の本領である。遺伝子で説明できる範囲を完全に逸脱している。人間の営為のすべて、感情のすべてまでを遺伝子で説明ができると思い込んでいるのだ。それならそれで徹底すればいいのに、適用範囲が思いつきでしかないため、「子どもが減っても、子どもを欲しがる遺伝子が残るので、あっという間に人口が増える」なんてバカなことを言い出し、「だったら、なんでその前に人口が減ったんだよ」と突っ込まれて破綻する。

いくらなんでもこれが「“天才”竹内久美子の最高傑作」(帯のコピー)のわけがないと思って、他の著書も確認してみたが、やっぱり無茶苦茶であった。

※ここで私はマラリア説を「あり得ない話ではない」と書いていますが、その可能性は相当に低いでしょう。一般に生物は、可能な限り繁殖をするわけで、牛以外に人間というターゲットがいれば、その分蚊の個体数が増えるだけのこと。あるいはヒトの生活、行動に適した蚊の種類が増えるだけのこと。「牛がいるからヒトの血を吸う蚊がいない」なんて事実自体がないと思われます。こういうテーマは文化人類学の領域で論じられていることの方がずっと適切です。なぜヒトはタブーを設定するのかという疑問を知りたいのなら、竹内久美子ではなく、もっとマシなものを読んだ方がいい。

 

 

あんたの話ウソばっかり

 

vivanon_sentence他の著書からもひとつ例を挙げておく。『男と女の進化論』(新潮社)なる本の冒頭に出てくる「女のシワは何故できる?」と題された一文だ。女は何故シワを気にするのかとの疑問から始まり、その理由を説明していくのだが、彼女の結論は「(女性のシワは)チンパンジーのしぼんだ性皮のごとく見せかける特殊メイク」であり、「彼女の発情が終わったことを広く世間に知れわたらせる」のだという。よくもまあ。

チンパンジーのメスは、発情期に性器を張らせることによってオスの注意を引く。つまり張りのない性器はオスにとっては魅力的でなく、人間のシワはこの状態に適応するというのである。もしそうだとするなら、何故男にもシワができるのか。金玉袋にシワがあるからか? 子どもの金玉袋にもシワがあるぞ。また、まだまだ生殖能力もある二十代からシワができ始めるのはなぜか。

わざわざチンパンジーの性皮を持ち出さずとも、「老けた女は生殖能力が落ち、あるいはなくなるため、種族保存の観点からは魅力が減ずる。老化現象のひとつがシワであるから、シワは嫌われる」と言えばいいだけではないか。

彼女は、この文の中で、チンパンジーの場合、若いメスよりも中年のメスがモテるという話を書いている。だったら自分の論は間違っていることの証明ではないか。

チンパンジーは、閉経というものがなく、かなりの老体になっても出産できる。しかし、これはチンパンジーに限ったことでなく、ほとんどの生物にとって生殖可能な年齢を越えることは生体の死に直結するのであり、閉経して以降、いつまでも生き続ける人間が異常である。このことで、人間のメスにおけるシワの意味がわかりやすい。

人間のメスは四十代にもなれば多くの場合は閉経を迎え、そうではなくとも、高年齢出産は母体にも子どもにもリスクが高まる。子孫をより多く残すという意味では若いうちから産み始めた方がいい。ましてや人間の場合は、結婚という欝陶しい制度があるから、次から次と乗り換えるわけにもいかず、多くの子孫を残すという長らく人類が持っていた人生の目標に照らし合わせれば、これからせいぜい一人、二人しか生めないであろう中年のメスよりも、可能性としては十人生める若いメスがよい。従って、年をとった象徴であるシワは嫌われる。

しかし、ヒトは種族保存のためにすべての行動をするようにはできておらず、すべての恋愛やセックスは出産を前提になされていないため、シワがある方がいいというマニアも出てくる。子どもの数も「できるだけたくさん」なんてことはなくなっているので、若ければ若い方がいいという価値観も崩れる。

こんだけのことにワケのわからん理由づけをして原稿料稼ぎをしやがってよ。

この本のイラストは沢野ひとしが描いているのだが、これが笑える。「女のシワは何故できる?」のイラストは、割烹着らしきものを着たオバハンが「あんたの話ウソばっかり」と言っているものである。沢野ひとしもさすがにあきれたんだろう。

 

 

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