山田わかによる浜田栄子評の杜撰さ—女言葉の一世紀 122-(松沢呉一) -2,949文字-
「女たちが体制を補完し、道徳を強化した—女言葉の一世紀 120」の続きです。
山田わかによる皮相な浜田栄子評
浜田栄子について取り上げたのは、山田わか著『家庭の社会的意義』(大正十一年)を読んでいたら、その名前が出てきたからです(山田わかは「青鞜」出身の婦人運動家であり、マーガレット・サンガーを「抱腹絶倒」とこきおろして、産児制限運動を否定しきった人物です)。
以下。
処で、此の家長の絶対権に反抗して起った個人主義的思想は、久しい間の因襲的な家庭の習慣や家長の跋扈から家族の者を解放するには充分でありますけれども、併し、自由に伴ふ重大な責任観念を子供に注入しようとする空気が家庭のうちに欠けてゐるたるめに折角の解放も放縦を養成することになってしまひます。つまり、子供を崇拝するあまり、子供に最大限度の自由を与えて置いて、そして、其の自由を活用する訓練を欠く結果は往々悲劇の発生となるのであります。浜田栄子が其の最も適切な実例であります。
これだけ。ついでのように名前が出ているだけですけど、「これは誰だろう」と気になって検索してみたところから始まって、どっぷりとこの騒動にハマって墓参りまですることに。
その騒動を調べた今となっては、山田わかのひどさがよくわかります。
椒魚生著『浜田栄子恋の哀史』(大正十年)のはしがきにはこのように書かれています。
世間では栄子の死を新旧思潮の犠牲だとも言うてゐます。或はそうかも知れません。又彼女が死を選んだのは当然だ周囲が悪い人ぢゃないかとも言ふ人があります、或はそうかも知れません。然し私はそんな理屈は柄にもないし、何等の興味もありません、若くて美しい栄子の死が問題なんです。
栄子と同じ様な境遇に泣いてゐる人は声をあげて泣いてやってください。
論ずるより先に、まず栄子の死を悼むべきではないか、ってことでしょう。彼女の死の真意を知ることも必要なのだし、彼女はそうして欲しくて死を選んだのだから、ただ泣いているだけで留まるのもどうかと思いますが。
「新旧思潮の犠牲」という見方をしたのはまさに山田わかです。
浜田栄子は放縦の結果死んだのではない
「新旧思潮の犠牲」といった見方が溢れていたからこそ、椒魚生はそれを諌めるようなことを書いたわけで、こと山田わかだけではないのですけど、山田わか著『家庭の社会的意義』が出版されたのは、浜田栄子の自殺の翌年ですから、もう少し慎重な書き方があったろうと思います。でも、山田わかには無理なのです。他者を慎重に評価することができない人です。
(残り 1966文字/全文: 3115文字)
この記事の続きは会員限定です。入会をご検討の方は「ウェブマガジンのご案内」をクリックして内容をご確認ください。
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
会員の方は、ログインしてください。
外部サービスアカウントでログイン
Twitterログイン機能終了のお知らせ
Facebookログイン機能終了のお知らせ