松沢呉一のビバノン・ライフ

「私」を主語にできなかった人の告白—「私」を主語にできない問題[8]-(松沢呉一) -2,388文字-

私」を主語にすることで自由な主体を獲得する—「私」を主語にできない問題[7]」の続きです。

 

 

 

小室朋子氏の告白

 

vivanon_sentenceネットで「私を主語にできない問題」に関して書いている人がいないかと思って検索してみたのですが、このことを示す用語が確定していないので探しにくく、ピッタリのことを言っている人は見つけられませんでした。

ここまで見てきたように、マイク・モラスキーさんが主語の問題を指摘していますし、フランスのフェミニストもこれを指摘しています。検索できなかっただけで、もっといるのだと思いますが、このことを論理だって説明しているものは決して多くないと思います。私は四半世紀にわたり、ずっと言い続けていますけど、あまり認識されていないテーマなのかもしれない。

しかし、フェミニズム文脈でも私の文脈でもないながら、また、自分が属する集団を主語にするのではないながら、小室朋子さんという医師が「私」を主語にできず、自分ではない他人を主語にしていた時の自分と、「私」を主語にできるようになった今の自分を正直に吐露しているブログがありました。

 

 

 

 

 

この人が書いている他のエントリーを見ても、私はちいとも共感がありません。ひとつ間違うとスピリチュアル方面に行きそう。しかし、このエントリーは、私を主語にすることが難しい人々のサンプルとしては大変役に立ちます。

小室さんは「私」を主語にすることを「私主語」とし、他人を主語にすることを「誰か主語」「他人主語」と呼んでます。検索すると、「私主語」という言葉は他にも使っている人がわずかにいますが、この文脈での「私主語」とそれと対になる「誰か主語」「他人主語」という用語は小室さんのオリジナルっぽい。重宝なので、私も使わせていただきます。

小室さんの言う「誰か主語」「他人主語」は自分が属する集団を主語にする「属性主語」とは必ずしも一致しないのですが、いずれも「私」の責任を回避、分散する行為です。小室さん自身、そう認識しています。

 

 

「私」を主語にする怖さ、「私」を主語にしない怖さ

 

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ここまで私が書いてきたことを自分自身の変化として語っていることに感心しながら面白く読めたのですが、私の中にまったくない感覚が書かれていて、当惑もしました。

 

 

わたしは、そんな「誰か」主語で生きて、くたびれ果て
「もう、嫌だ」と思い、「こんなに自分をないがしろにしてていいのか?」と
自分に向き合いました。

「わたしは私で行こう」と決めて以来、
「わたし」主語で生きるようになりました。

最初は、怖かったです。
「わたし」主語で生きること=迷惑をかけることになるのでは?と。

 

 

 

「私」を主語にすることごときで何を怖がっているのかさっぱりわかんねえ。これっぽっちもわかんねえ。カラスが黒い理由以上にわかんねえ。

もちろん、小室さんが一切「私」という言葉を使えていなかったはずはなく、自分が責任を負うべき内容においては使えなかったということだろうと思われます。多分に比喩的要素も入っているのでしょうけど、書いていることを読むと、実際に彼女は「私」と言うべきところで言えなかったようです。

 

 

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