ふたたび雑司ヶ谷霊園へ—浜田栄子はなぜ死を選んだのか(12)(最終回)-(松沢呉一)-3,750文字-
「浜田家と矯風会との関係—浜田栄子はなぜ死を選んだのか(11)」の続きです。
浜田初枝という名前
浜田家の墓を訪れて、もうひとつ気になることがあった。墓誌である。
写真では見えにくいだろうが、右は「昭和四十八年十一月二十二日寂 俗名浜田捷彦 行年七十八歳」とあり、左は「平成十三年十月四日寂 俗名浜田初枝 行年九十一歳」とある。捷彦が亡くなるまで、玄達亡きあと、この墓には他に誰も納骨されていなかったようである。
捷彦は明治二十年(1887)生まれのはず。昭和四十八年(1973)に亡くなったのであれば、数えで八十七歳である。墓誌で誤植なんてあるのだろうか。あるか。七と八を入れ替えてしまったのだとすれば納得できる。間違えて彫った場合、修正しにくいので、そのままにすることはありそうだ。
ひっかかったのはもう一人の浜田初枝である。これが誰なのかわからない。平成十三年(2001)年に九十一歳で亡くなったとすると、明治四十四年(1911)生まれ。捷彦と辰子が結婚したのは大正五年(1916)。わかっている範囲で、この二人の間に結婚前の子どもがいたとの記録はないが、記録がないだけで、子どもが先に生まれていたのかもしれない。放蕩の過程で辰子ではない相手との間に子どもがいて、のちに認知したものとも思えるが、この場合、母親から離れて子どもだけを父方の墓に入れないのではなかろうか。
年齢からして、辰子が存命である可能性は低くて、にもかかわらず、ここに名前がないことから、辰子と離婚をして、初枝と再婚した可能性もありそうだ。二十四歳差だったらあり得なくもない。
入る墓がなくて、遠縁の者の遺骨を引き取ることもあるので、ここは何とも言えない。
管理者は不明
水をかけたため、栄子の墓の文字が写真では読み取れず(前回出した写真のうち、下の方に出てくる写真。上に出てくるのは撮り直したもの)、五日ほどしてから再度墓を訪れた。
あっ。
玄達と捨子の墓に花がある。栄子の墓の花はしおれつつ、そのままになっている。花があったために新たに供えなかったのでなく、いつもそうしているのではないか。
ここ数日、誰かの命日だったわけではなく、頻繁に訪れている人がいるようだ。浜田病院関係者か。あるいは捷彦の子どもや孫か。
墓の管理者か。教えてもらえないだろうと思いつつ、管理事務所で聞いたところ、やはり個人情報なので教えられないとのこと。
一ヶ月くらいここで待ち伏せしていたら、墓を管理している人物と出会えるかもしれないが、その人物は私の知りたいことを知っている保証はない。捷彦と辰子の子どもや孫、初枝が再婚相手だったとしたら、その子どもや孫だろうが、捷彦から正確なことを知らされているわけでもないだろう。
百年は長過ぎた。
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