「私主語」へ—「私」を主語にできない問題[10](最終回)-(松沢呉一) -2,453文字-
「「他人主語」と「弱者萌え」—「私」を主語にできない問題[9]」の続きです。
「私主語」を試す
癖で言葉遣いが残っているだけで、内的動機がすでに消えている人であれば、ちょっと注意するだけで「私主語」を実践することは可能だと思うのですが、こういう発想、こういう自己規定が十年二十年と染みついている人が、一日二日で簡単にそこから抜け出せるのかどうか私にはわかりません。自我の形成に関わることですから、そこから抜けて、自分自身を確立するには何年もかかるのではなかろうか。
「私」を主語にすべきところで当たり前に「私」を主語にできている人たちには理解できないでしょうけど、自身も他者も個でとらえることが難しい人たちって本当にいるんですよ。
「『ワタシが決めた』の経験—「私」を主語にできない問題[3]」に書いたように、「“私”を主語にして、“私”の体験、“私”の考えを書いて欲しい」とお願いしているにもかかわらず、どうしてもそこが理解できなかった人たちが一定数でてきてしまったこともそのひとつの例かもしれない。たんに、原稿依頼書をちゃんと読んでなかっただけかもしれないけれど。
かつてそれでメルマガの購読者にぶち切れたこともあります。属性でまとめて判断をする。一人は男、一人は女でした。さんざんこういうことを言い続けているメルマガを読んでいる人たちでも、そこから抜けられないことに無力感に襲われました。
個で判断するのでなく、集団で判断する発想が強固な人たちがおそらく一割、二割という単位で存在しているのだろうと思います。同じ属性でも他人と自分は違うってことが受け入れられない。同質性を求める人たちであり、異物を排除したがる人たちでもあります。
言葉というのは内面に関わることであり、とくに主語を筆頭として、言葉は内面にも変化を起こすと思うのですが、一定の年齢までその強固な発想をしてきたら、表面的に言葉遣いが変わっても、内面はもう変わらないかもしれないようにも思えます。
「私」を主語にするくらいで小室朋子さんのように鮮やかに意識が変化することはおそらくそうはなくて、やっぱり彼女はそれを実践する前に医者という立場から十分な準備ができあがっていたのではないですかね。それでもともあれ試してみる価値はあるでしょう。
※慈恵医大は前回写真を出した第三病院の横にあります。小室朋子さんがここ出身というわけではなくて(そうかもしれないけれど)、銭湯の帰りにたまたま通りかかったものですから。
「私主語」で語れない政治家は困る
小室さんの書いていることを読んで気づいたのですが、この話ってスピリチュアル系や自己開発系のセミナーめいたもののテーマにされていたりしそうです。ここを克服すること自体は、どんなタイプのセミナーにおいても有益だと思います。
「私」を主語にできない人は、そういうところでもいいので通って欲しい。すぐに解消できないかもしれないので、十年でも二十年でも通って欲しい。それが克服できるまではウザいので黙っていて欲しい。
医者の場合は患者ありきですから、「薬を服用するのか否か」「手術するのか否か」だって患者の判断に委ねればいい。むしろその方がいい医者とされることもありましょう。しかし、職業によっては甚だまずいことになります。
たとえば政治家は有権者ありき、国民ありき、住民ありきと言えども、自身の主張を貫かなければならず、「私」で主張できない政治家は、ただの党の票合わせにしかならず、力のある者に従うしかない。選挙演説で「日本人はかくあるべし」「女は戦争に反対です」なんて言っているのがいたら、票を入れないようにしましょう。自分で責任をとる気のない人でしかありませんので。
※たまたま通りかかった東京医科大学
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