松沢呉一のビバノン・ライフ

新橋にあやかったのか、橋の名前が由来か—中野の花街(4)(最終回)-[ビバノン循環湯 388] (松沢呉一)-4,522文字-

淀橋と蛇伝説—中野の花街(3)」の続きです。

 

 

 

『開花中新半世紀』で中野新橋花街の沿革が判明

 

vivanon_sentence中野の花街についての資料がほとんど見当たらず、横道に逸れて淀橋についての資料を読み耽り、そろそろ帰るかと思い、もう一度棚を眺めていたら、冊子が並んだ棚に、小さなコピー本があった。 『開花中新半世紀』(昌見/昭和53年)だ。

表紙に読みが書かれていたのだが、表紙のコピーをコピー機から取り忘れたみたい。「中新」は中野新橋のことなので、「はなひらくなかしんはんせいき」かな。

発行元の昌見は貴乃花部屋のある一角の南の一角にあった大きな料亭で、現在はマンションであり、著者はその店主である。

これで、中野新橋花街の歴史はほぼわかった。

中野新橋花街」、略して「中新花街」が誕生したのは昭和三年七月のこと。それまで静かな農村だった中野町は関東大震災を契機に急速に発展する。そこで地主たちが集まって花街を設立。料理屋と置屋の二業からスタートし、この月に認可されたようだ。

※Googleストリートビューより、前回出てきた蛇伝説の成願寺。ここは高い木の塀が面白い。

 

 

中野町誌に出ていないのは当然

 

vivanon_sentence新井薬師も事情は同じだろう。十二社あたりから芸者を呼ぶことはあったにしても、やはり中野のふたつの花街は昭和になってから正式に認可されたのだ。

官製の郷土史に記述がないのはおそらくこのことに関わっている。昭和二年の『中野町誌』を編纂している頃にはまだ花街は存在せず、この本が記述しなかったことによって、以降の発行物でもそれをなぞってしまったのだろう。

この時、指定地域内の料理屋は一、二軒のみで、芸妓の仕事がないため、遠くまでお披露目に行ったとあり、そのひとつが東中野の釣り堀「鈴木屋」。これが現在の日本閣だそうだ。釣り堀と言っても、酒を飲み、食事ができるようなところだったのだろう。釣り堀はそういった娯楽施設であった。

翌昭和四年九月に営業開始。料理屋は四軒、置屋は三軒、芸妓は十人くらい。料理屋のひとつに亀太川が入っている。

翌昭和五年十月に中野新橋二業組合ができた。料理屋八軒、芸者置屋十軒、芸者四十八名。一年で急増していることから、いかに盛況だったのかがわかる。中野が急成長していた場所だったためだ。

この時の料理店組合長が亀太川鈴木初五郎。以降ずっと組合長を務めているので、中野新橋の有力者だったらしい。

昭和十三年には料理屋三十七軒、置屋四十五軒、芸妓百十五人。こうも発展した事情も書かれていて、中野は取締がゆるく、夜通し騒いでいてもよかったため、円タクを飛ばして遠くから中野まで来る客が多かったとある。それだけ民家が少なかったのだろうし、周りに民家が増えてきたところで、花街が先だから、文句はつけない。

戦争になると、さすがに営業は縮小するしかなくなり、昭和十九年四月十六日、中野新橋二業組合中野新橋接待所営業組合と改称、芸妓の名前も使用できなくなり、「接待婦」という名称になり、やがては芸妓による女子挺身隊が編成される。

※『中野町誌』は中野区立図書館がネット公開しています。花街のことは出てないわけですが。

 

 

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