『読む辞典—女性学』の「売春」の項—セックスワークにおけるフェミニズム内の対立(上)-(松沢呉一)-2,958文字-
「私」を主語にすることで自由な主体を獲得する—「私」を主語にできない問題[7]」の続きです。
『読む辞典—女性学』掲載の売春の項が面白い
「「私」を主語にできない問題」シリーズで登場した『読む辞典—女性学』に掲載された「売春」の項目が大変面白いことになってます。2001年発行ですが、すでにフェミニズムの中でも、セックスワーク肯定論が力を持っていたことが十分に反映されています。
他の項目は1名の執筆者(2名の共同執筆もありますが)が1本担当しており、同テーマは1本のみの掲載になってます。
しかし、「売春」のみ、独立したⅠとⅡに分かれています。論点が多岐にわたるために、内容をふたつに分けたわけではありません。「売春 Ⅰ」の執筆者はクローディーヌ・ルガルディニエ。「売春 Ⅱ」の執筆者はゲイル・フィータースン。どちらも売買春をめぐるフェミニズムの議論を概括したものであり、取り扱うテーマが違うわけではありません。
他にも重要テーマはさまざまあって、売春だけ、特別に扱うべきテーマだと判断したとは思いにくい。たとえば労働については、「労働(の概念)」「労働組合」「労働の健康」といったように、さらにテーマを細分化させることで重層的な取り組みを実現しているのに、売春だけが同テーマ、同タイトルの2本立てなのです。
この2本を読むと、なぜこんなことになったのかが推測できてしまいます。おそらく編者(複数です)はまずクローディーヌ・ルガルディニエに執筆を依頼したのでしょう。ところが、できあがった原稿を読んだら、辞書という体裁を無視した一方的かつ感情的な書きっぷりに頭を抱え、追加でゲイル・フィータースンに執筆を依頼したのだろうと思えます。
そのくらい「売春 Ⅰ」はひどいのです。かといって没にもしにくかったのではなかろうか。
売買春総体を否定し、セックスワークをワークとして認めることも拒否して、スウェーデン方式を肯定的に書いています。その主観を隠すことなく、はっきりと持論を展開しています。
※『読む辞典—女性学』の原本(Dictionnaire critique du féminisme)
見事な編集、見事な執筆
この本を読むと、いかにフランスで、あるいはそれ以外の国であらゆるテーマにおいてフェミニズム内での議論がなされ、意見の対立が起きているのかがよくわかりますが、意見が対立するからといって複数の執筆者が同じテーマを書くということになっていない。どうしたって書き手の考えを反映した片寄りはありつつも、それぞれの執筆者が辞書という体裁を意識して、必ずしも合意できない意見までを拾っているからです。
その点、「売春 Ⅰ」はひどすぎ。先行してできた原稿がひどすぎて、慌ててもう一人に依頼したのではなく、このテーマでは他のテーマ以上に対立をしているため、両方の立場から書いてもらう判断をしたのかもしれないですが、そうだとしてもこれは見事な対比です。
その判断のおかげで、売春否定の論がどういうものか、どれだけ冷静さに欠けるのかまでがよくわかって、ナイス編集です。
対してゲイル・フィータースンによる「売春 Ⅱ」はセックスワークをめぐるふたつの立場を偏ることなくフラットに記述していて、こちらを読むことによって、「売春 Ⅰ」がその片方の立場からの一方的な論述であることがいよいよよくわかります。
たとえば「売春 Ⅰ」では、「癒しの巣運動」という運動体をフェミニズム運動と並ぶものとして肯定的に取り上げているのに対して、「売春 Ⅱ」ではその団体がカトリック系の団体であり、「道徳的な立場」による運動であることが説明されており、フランスという国で売春廃止の姿勢が強いのはこの団体によるところが大きいとしています。つまりはフェミニズムというよりも、宗教道徳によってそうなっているのだというところまでわかる。
「売春 Ⅱ」はおそらく「売春 Ⅰ」の原稿を踏まえて、それにぶつけるような補足的説明をしたのではなかろうか。ナイス執筆。
※こちらは新装版かな。
セックスワーク肯定論と売春否定論の対立
辞書的客観性が保たれている「売春 Ⅱ」から、セックスワークをめぐる対立をよく見せている部分を引用してみます。フランスの事情はこのあと書かれていて、この引用部分では欧米諸国のフェミニズムにおける売春の議論をまとめています。
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