松沢呉一のビバノン・ライフ

契約書は絶対ではない—KaoRiとアラーキーの件から考えたこと(1)-(松沢呉一)-4,016文字-

やっと7割方まとめたのですが、出すことにためらいがあります。トータルで言えばKaoRiのやってきたことを誰よりも肯定する内容なんですけど、ある部分だけをとらえると、KaoRiの言い分の批判になっています。そこだけ引っ張り出して利用されるのは本意ではありません。しかし、全文読めない人も読むウェブマガジンではそうなるのは必至であります。そこでほとんどを無料公開せず、こっそり出すことにしました。購読者はできれば最後まで読んで欲しいけど、思いつくまま書いたものなのでまとまりが悪く、ダラダラと長いですから、適当に。

第一回目の今回はFacebookに公開した文章が中心なので、そこまでは無料公開しておきます。

 

 

 

 

契約書なんていらない

 

vivanon_sentence先日、Facebookにこう書きました

 

 

えっ、高畑監督が亡くなったのか。今知った。遅いわ。むかーしむかし、インタビューしたことがあります。合掌。

ビートたけしが独立するって話はぼんやりとは知っていて、この間、やかん君にもほんのちょっと聞いていたのですが、揉めに揉めているって話は昨日知った。遅いわ。

アラーキーの話も昨日知った。もっと前から小耳に挟んでいたのですが、カオリン(長らく会ってないですが、古くからの知人です)が書いたものは昨日読みました。遅いわ。https://note.mu/kaori_la_danse/n/nb0b7c2a59b65

これは事実関係の確認とともに、問題を整理しないと触れにくい。「アラーキーはひどい」と言ったところで、どこがどうひどいのかを見極めないと、解決にならない方向、教訓にならない方向に行きそうです。

たとえば契約書のないことが無条件に非難されるべきとは思えない。いつも言っていることですが、私は少なくとも自分自身について「出版契約書なんてなくてもいい」という考えであります。原稿の権利はこっちが持っているからで、契約書がなくても権利主張が可能です。契約書は書き手も縛られ、それに反すると違約金を払わなければならなくなるので、んなもん、なくていいです。

写真は著作権と肖像権の問題なのではまた少し事情が違ってきますけど、今回のケースで契約書で解決できる部分はほとんどなさそう。

昨今テレビや雑誌の街頭での撮影でも同意書にサインしてもらうようになっていますが、あれは被写体の権利を守るためではなくて、撮影者のトラブル回避のためです。同意書がないと、「撮影には同意したけど、公開されると思ってなかった」「朝の撮影だからいいと思ったけど、ゴールデンの放送とは思ってなかった」などなどのクレームがついた場合に無視しにくく、場合によっては撮影側が金を払うことになります。

出版の場合、回収するなんてことになったら何百万円もの損害ですから、10万円払って済ませた方がまだいいのです。ということから、現にクレームがつくこと、そのクレームに法的な正当性がなさそうでも金を払うことがあって、ちょっとした撮影でも、二次使用までを含めた同意書が交わされるようになってます。

彼女自身、トラブってからおかしな同意書にサインしてしまっているように、たいていの場合、強い側の都合で契約書は作られますので、文句をつけて条項を外させたり、加えさせたりすることのできる人、自分自身で契約書を作れる人以外にとっては、自己の権利を守ることより、権利主張ができなくなる側面の方が大きいでしょう。

これによって法律上の対策だのを考えても解決しない感触があって、彼女もそれを望んでいるわけではなさそうです。

といったように考えるべきことがいっぱいあって、現在考え中。

 

 

カオリンというのは私らの間での呼称です。他にもカオリンがいるため、区別する時は「ダンサーのカオリン」と言ったりしています。写真のモデルというのは彼女の一面であって、一回しか公演を観たことないけど、私にとっての彼女はダンサーであり、彼女自身が主体的な表現者です。彼女はモデルもある時期までは自身の主体的表現だととらえていたはずです。

 

 

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