松沢呉一のビバノン・ライフ

大学でメシを食うことの意味—専門家の責任(5)-(松沢呉一)-3,362文字-

知らなかったらしょうがないけれど—専門家の責任(4)」の続きです。

 

 

 

原田実氏の新刊が出ます

 

vivanon_sentenceお知らせです。

原田実「江戸しぐさ」批判シリーズの新刊が来月か再来月に出るそうです。版元から連絡をいただきました。グッドタイミング。そうとは知らないまま、私は事前プロモーションをやっていたわけです。「江戸しぐさ」は専門家の責任と、その責任を果たさない現実とを見せるための素材として持ち出した前振りなんですけどね。

「江戸しぐさ」は創作だったという話が盛り上がっていたのは数年前のことなので、この辺でもういっちょ盛り上げておく必要があります。「ビバノン」でやってもそんなには盛り上がらないですので、皆さんも盛り上げていきましょう。

まだ版元のサイトには告知が出ていないので、ここでも伏せておきますが、これまでより大きい出版社なので、店頭でも広告でも目に触れやすくなると思います。よしよし。

原田氏の本は、ただ間違いを指摘して「バッカでー」と嗤うだけでなく、その背景や人物にもしっかり踏み込んでいるので、読物として面白い。むしろ、そちらにこそ読みどころがあると言っていい。ぜひお読みいただきたい。

私は「江戸しぐさ」を「すでに終わったもの」と書きましたが、それはブームが終わったという意味です。教育現場にも入り込んだ「江戸しぐさ」を一掃しないと終わったことにはならないし、なぜこんなことになったのかについて検証しないと、別の「江戸しぐさ」がまた出てきます。つうか、ほとんど常にあちらにもこちらにも「江戸しぐさ」は存在しています。

ここまで見てきたように、まず猛反省しなければならないのは歴史学者たちです。今回は歴史学者が無視できないくらいに売れて欲しい。歴史学者の肩書きがある人をSNSで見つけたら、「先生はなぜ江戸しぐさを批判しないのですか。この本をどうして推薦しないんですか」と聞くといいでしょう。

専門家やメディアの責任に比べればこういうものを信じてしまう一般の人たちの責任なんてなきに等しいですが、今はそれを簡単にネットで書けますから、過去に推奨してしまった人はその点についての責任はあって、各自今からでも反省文を出すことによって、原田実氏の新刊をサポートするように。

 

 

箔で信じる人たちには箔で対抗

 

vivanon_sentenceでは前回の続きです。

批判は次々とさまざまな人がやり続けるしかないのだと前回書きました。その際に、研究者こそが批判者として適任です。

Wikipediaの「江戸しぐさ」の項に、碓井真史・新潟青陵大学大学院教授による「あまりにも馬鹿げており、反論しても研究論文にも学問的業績にもならない事に加え、エビデンスを重視せず団体の独自教義普及に依る何らかの利益供受者や、学術的常識に乏しい都市伝説の信奉者を納得させるのは困難を極める」というコメントが出ていました。

どれも批判しない理由としては弱い。

 

 

あまりにも馬鹿げている→そんな馬鹿げたものが教育現場に入り込み、それを懸命に阻止しようとしている物書きがいる。彼にとっても馬鹿げているのは同じ。一方、そんな馬鹿げたものをヨイショした田中優子を放置する学者たちもまた馬鹿げている。

反論しても研究論文にも学問的業績にもならない→業績にはならないのに酒を飲んでいたりするのはどういうわけだ。

エビデンスを重視せず団体の独自教義普及に依る何らかの利益供受者や、学術的常識に乏しい都市伝説の信奉者を納得させるのは困難を極める→批判は今現在信じている人たちを説得することだけでなく、これから信じてしまうかもしれない人々への警告の意味がある。前者の意味で効果が一切なくてもなお批判はされなければならない。

 

 

これらの言い分はすべての人たちに言えることです。むしろ、専門家ではない人々は、もっと手間も時間もかかるのです。

勘で読んだ松原始著『カラスの教科書』」で、さすがに研究者の書くことは説得力があるって話を書きました。素人ではスルーするところに気づける。あれは竹内久美子を放置した研究者の責任を指摘するために出したエピソードです。本編を出すのをやめたので、前置だけになって、ワケがわからなくなってしまいましたが。

 

 

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