契約は文書がなくても成立する—KaoRiとアラーキーの件から考えたこと(4)-(松沢呉一)-3,280文字-
「権利の拡大は他者の権利を制限する—KaoRiとアラーキーの件から考えたこと(3)」の続きです。
冷静にやらないと解釈の暴走が起きる
こっちが権利主張すると、あっちの権利が制限されるという関係にある場合、それぞれが持っている権利の折り合いを法が定めているという話を前回書きました。
肖像権についてはほどほどのところで留めておいて、報道の自由、表現の自由が制限されないようにして、パブリシティ権については拡大の方向にあるのが現状でしょう。それで商売をする場合は権利者に許諾をもらって、払うべきものは払いましょうと。
しかし、パブリシティ権も拡大しすぎると、他者の表現の制限になってきて、著名人の名前をうかうか出せないってことにもなりかねない。本文で名前を出すのはいいとして、タイトルは衆目を集めるためのものなのだから、そこに著名人の名前を入れるのはけしからんということになると、私だって困りますよ。伊藤野枝やエレン・ケイの名前をさんざんタイトルに入れてきてますから(パブリシティ権がいつ消滅するのかについてははっきりしていないみたいですので、死んだからって使っていいとはならないですが、記事タイトルにまでパブリシティ権が及ぶことにはなっていないのが幸い)。
無体物の権利は、有体物と違って、とらえどころがない分、正確に理解しておかないと解釈の幅が広くなりがち、自分勝手になりがち。著作権も肖像権も。
一方の立場に感情移入して、権利主張を暴走させたいい例が高井としを著『わたしの「女工哀史」』です。あっちでもこっちでもこの話が出てきますが、たまたまです。
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