互いに権利を理解していればナアナアでいい—KaoRiとアラーキーの件から考えたこと(5)-(松沢呉一)-2,877文字-
「契約は文書がなくても成立する—KaoRiとアラーキーの件から考えたこと(4)」の続きです。
契約書にサインしてあとで泣く人たち
出版においても、契約書があれば揉めなかったケース、契約書があれば揉めても解決されやすいケース、契約者があれば書き手の権利が侵害されなかったケースもありましょうけど、ライターと出版社の関係においては、契約書がなかったために書き手が損をする、あったから得をするケースはほとんど考えられません。
前回書いたように、ここにおける権利関係はシンプルであり、不確定要素が少ないからです。
著作権は原則書き手が持っていることくらいは編集者だってわかってます。「金払え」「勝手に二次使用するな」と言えて、あちらが契約書がないことを理由に対抗することはまずない。そんなことでは対抗できないですから。
署名原稿であれば自動的に自分が書いた原稿であることの証明が可能であり、無署名であっても、編集者が「別の人が書いた」などとすっとぼけることはまずないでしょう。日本の出版史上、そんな例はひとつもないのではなかろうか。
主張ができるのは、自分のもっている権利についての認識が十分にあるからです。その上で契約書も初めて理解できる。
契約書は隅から隅まで読んだ方がいいと思います。
このヒナ型はいいとして、「えっ、なんだそれ」という契約書も存在します。
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