松沢呉一のビバノン・ライフ

クオータ制に反対するフェミニストたち—日本の女性議員率 15-(松沢呉一)-2,811文字-

タイトル上は「女子大は政治家になる上で意味がほとんどない—日本の女性議員率 14」の続きですが、あれ以降、いろんなところに話が飛んでいます。このシリーズでは女子大を変革すべしという流れになってましたが、すでに女子大に期待するだけ無駄なので、女子大は存在しないものとして放置するとして、『女子のキャリア』シリーズで見て来たことを踏まえて、日本の女性議員率について改めてまとめておきます。まだ続くかもしれないけれど、このシリーズの総括みたいなものです。

 

 

クオータ制に対するフェミニストからの反対論

 

vivanon_sentence

「私」で語れない女たちのフェミニズム的解釈—「私」を主語にできない問題[4]」を筆頭に、ここまで繰り返し取り上げてきた『読む辞典—女性学』は大変役に立ちます。通して読めるように、同書のタグを作っておきました。

「フェミニストだったらこう考えるだろう」とついイメージで決めつけてしまうわけですが、現実にはフェミニストと一言で言っても意見はさまざまで、しばしば対立もしています。日本でもそうだと言われそうですが、日本の比ではありません。むしろ日本ではフェミニズム内での対立を避けようとする傾向が強い印象があって、この本を読んでいよいよ「日本と違うぞ」との思いを強くしました。

売春についての対立はとっくにわかっていたわけですが、その歴史は古く、対立もまた激しい。また、それ以外でも「ここでもあそこでも」ってくらいに対立していて、どのポイントでどう対立しているのかもよくわかります。

こういう国の人たちが「フェミニズムは一枚岩ではない」と言うのは自然なことですが、意見が対立すると、「分断するな」として、敵対する意見を封殺しようとする国の人たちがそう言うのは無理がありましょう。

 

 

クオータ制に対する批判

 

vivanon_sentenceクオータ制についても複数の項目で取り上げられていて、フェミニズムの中での意見の対立が描かれております。

フランスではすでに比例代表の名簿が男女順番になるようにするクオータ制が導入されていますが、これに対してはフェミニズムの間でも対立があったとのこと(おそらく今でもあるでしょう)。

反対派の立場を簡単にまとめれば、「差異の制度化」に対する抵抗です。「もともと男と女は違う。その違いは埋められないのだから、その差を制度で埋めて数字的平等を達成するしかない」という差異主義に基づく考え方や、「制度で数字的平等を先取することによって実質的な平等を達成する」という考えによるクオータ制賛成派に対して、「そうすることによって差異は固定化されて、むしろ平等は遠ざかる」と考える人たちが反対に回ったわけです。

議員の男女比に限らず、「数字的平等」をどう評価するのか、どう達成するのかの違いです。賛成派が、そこまで単純ではなかったにせよ、「ともあれ数字が平等になればいい」という考え方をしてしまうと、内実が問われなくなる。

これは海老原嗣生著『女子のキャリア』で、女の能力を発揮させる際に足枷となっているのは「女の特別扱い」であるとしていたことにも通じます。

「慌てて同数を目指すと、政治家の質の低下が避けられない。その上、母親は子どもの送り迎えさえ自身でやらなけれはならないとの社会的要請までを満たすとなると、女性議員の負担は大きくなり、議員になろうとする人材は減りかねず、いよいよ質が低下し、“女はダメだ”という評価が定まる」とする私の反対論とはまた違うわけですが、差異が強化されている社会においては、その差異の要因をひとつずつ取り除くべきであるという点では通じています。さもないと結局変わらない。

ここまで確認してきたように、「偏差値高い系」女子校は確実に男女格差を根底から解消してきています。安易にクオータ制を求める人々は、その成果を無視し、踏みにじることになっているわけです。

※私は映画をほとんど観なくなっているため、この映画自体、全然知らなかったんですけど、「未来を花束にして」という映画の原題は「Suffragette」。サフラジェットの一人を描いた映画なんですね。舞台はロンドン。サフラジェットの拠点。

 

 

next_vivanon

(残り 1165文字/全文: 2899文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ