松沢呉一のビバノン・ライフ

終りの共有—KaoRiとアラーキーの件から考えたこと(14)-(松沢呉一)-3,163文字-

感情領域の表現物—KaoRiとアラーキーの件から考えたこと(13)」の続きです。

 

 

 

KaoRiの真意

 

vivanon_sentenceここまで延々と私が書いてきたのは契約書、ギャラといったビジネスの作法であり、感情ベースの表現をビジネス基準で批判することはできないという話です。

ここまでを読むと、「松沢はKaoRiの主張を否定している」と思われそうだし、実際、その部分については否定しているのですけど、そもそも私は、それらが彼女にとって重要だったとは思えないのです。

彼女がああいうことを書いたことによって、契約書を絶対視する人たちが出てくるのは必須、現にそう受け取った人がいることも確認しています。「それは違うぞ」と言わないではいられない。

しかし、私は、彼女の真意(と私が受け取っているもの)を否定するつもりはありません。

では、改めてKaoRiの真意を推測し、その真意(と思われるもの)を肯定していきます。

KaoRiの告白文を読んで最初に考えたのは「16年もやっていたのか」でした。私の知るカオリンが荒木経惟の被写体になっていることは本人から聞いてましたし、いくつかは作品も見てますが、それは他の作品の中のひとつとしてであって、知り合いだからといって、とくにそこに強い関心があったわけではありません。

その後は荒木経惟の作品を観ることもほとんどなく、彼女がずーっと被写体であり続けていることは知りませんでした。

 

 

 

 

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