松沢呉一のビバノン・ライフ

「これは私の写真である」宣言—KaoRiとアラーキーの件から考えたこと(16)(最終回)-(松沢呉一)-4,385文字-

KaoRiが求めたのは作品の否定ではない—KaoRiとアラーキーの件から考えたこと(15)」の続きです。

 

 

 

パティ・スミスとロバート・メープルソープ

 

vivanon_sentenceすでに写真表現における撮影者と被写体は、どちらも写真を「自分のもの」と思うことがあって、それは自然なことなのだと書きました。

このことの実感がない人たちがいそうなので、念押しをしておきます。

被写体に著作権はないので、共同著作物ではないですが、その分、肖像権がありますから、共同の作品、共同の表現といった感覚になりやすいことは間違いない。そうじゃないものもありますけど、そうなり得る表現です。法律の解釈を持ち出さずともそういう表現であり、だから、「相手の権利も意識しておいた方がいい」と、ここまで書いてきた通りです。

絵画のモデルだったら、画家がいかようにもアレンジが可能であり、モデルも「私の作品」とは思い込めないこともありそうですが、写真は撮影者がコントロールしきれないものが写されます。写真もまたあとで修正でいかようにもできる時代になってきて、相当にこれも変化してきているでしょうけど、なお写真は被写体が「私の写真」と思える表現であり続けていて、それを観る人たちも同様です

たとえばパティ・スミスのこのジャケットを見た時に、間違いなくパティ・スミスの写真じゃないですか。どうやってもパティ・スミスの写真。レコード、CDのジャケットになっているといよいよそうです。

 

 

 

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