松沢呉一のビバノン・ライフ

客引きあの手この手—渋谷が怖かった時代-[ビバノン循環湯 391] (松沢呉一) -2,095文字-

「東スポ」の連載に書いたもの

 

 

ボッタクリが横行した渋谷

 

vivanon_sentence渋谷と言えば今や若者の街として知られるが、こうなったのは1970年代以降のこと。それまでは薄暗い地味な街であり、さらには怖い街だった。地味な街であることは知っていたが、怖い街だったことはかつて並木橋にあった古本屋の店主に教えられた。今では想像しにくいが、チンピラとエロの街だったのだ。

昭和二十年代の雑誌には、渋谷は暴力バーの街、過剰なエロサービスの街としてしばしば登場する。道玄坂や百軒店周辺にはそういった店の女給たちが立って無理矢理客を店に引き込んでいた。

金を出すとキスをしてくれたり、スカートの中に手を入れさせてくれる「おさわりバー」があって、それを目当てにくる客を狙う暴力バーがあった。

雑誌「りべらる」(太虚堂書房)昭和二九年八月号には、そんな店で女給として働くことになった京旗江という女性が書いた手記「二度とお客のこない店」が掲載されている。

夫が失職したために、募集の貼り紙を見て入った店は、コーヒー一杯、ビール一本で、三千円、四千円とボッタクる暴力バーだった(今で言えばこの十倍くらいの値段)。客がゴネると、裏から用心棒が出てきて金をむしりとる。二度と来ないわけである。

この用心棒たちは、数軒の店で金を出して雇い入れている暴力団である。今時のボッタクリは暴力までは使わないが、この当時は殴って金を出させることも行われていた。

そういう店だとわかった時にはすでに遅く、前借りをしているため、彼女は辞めるに辞められない。

無理矢理引き込もうとしても客は逃げるため、お願いをした方が客はついてくることを同僚から教えられ、彼女も見様見真似で客を引っ張った。

 

 

売春もしていたバー

 

vivanon_sentence働きだして三日目、彼女は店のママから「今晩は二階に泊まっていってくれ」と頼まれる。二階の部屋に時々女給たちは泊まっていくらしかった。

夫のことを気にしつつ、断ることができずに彼女は泊まっていくことに。ママはいつのまにかいなくなり、そこに客がやってくる。料金はすでにママに払っているという。

この店、暴力バーをやりながら、売春も並行してやっている店だったのである。彼女はそれを受け入れるところで話は終わる。

ボッタクリの客から金をむしりとったあとでは売春料金も払えないが、店の客とは別に客引きと話をつけて、ホステスに客をとらせていたのだろう。

 

 

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