松沢呉一のビバノン・ライフ

チンコの生えた女たち—裸の文脈(6)-(松沢呉一)-2,938文字-

文脈を利用するミロ・モアレ—裸の文脈(5)」の続きです。

 

 

 

フェミニストはチンコが生えているイメージ

 

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前回見たカレンダー用の動画で、売春婦イメージ、露出狂イメージなどに混じって、ミロ・モアレはフェミニスト・イメージを演じています。そこで彼女はビンを股間にあてがっています。これを見逃す私ではありません。

 

 

 

 

彼女にとってフェミニストはチンコのある女です。私にとってのプッシー・ライオットも完全にチンコが生えてます。巨根です。しかし、チンコの生えているイメージはあくまでそういうタイプのフェミニストに限ります。母性に依存するフェミニストは別グループ。

フェミニストを演じているミロ・モアレは怖い存在を設定して揶揄的にフェミニストを表現しているように見えます。彼女は自身をフェミニストと規定していないと思われるのですが、フェミニストではなくても、私にとってのミロ・モアレは「チンコがある女」です。

チンコのある女」というと、これまた皮相な文脈にずれて解釈されそうですが、「女という規範から逸脱している」ってことです。「女はこうあるべき」という規範に従わない。既存の文脈を裏切る。これと対になるのは「マンコのある男」です。男の文脈から逸脱し、それを裏切る男。

エロ街道をゆく』にその時の原稿が入っていたと思いますが、私が最初に女装した時の快楽は「女になること」ではなく、「男ではなくなること」の解放感でした。「チンコのある女」はそれに近い感覚であり、性の枠組みを超えるってことです。

 

 

チンコをもぎとりたい人たち

 

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どうやらミロ・モアレのパートナーがあれらの動画を撮影しているようですけど、この先10年くらいして、彼女が告白文を書きます。契約書もなく、ギャラがないこともあったし、事前に話がないまま人前で全裸にならなければならなくなったこともあって、そこで作られた露出狂イメージで苦しめられましたと。

その告白に対して、主体性のないまま、16年間も虐げられたモデルであったと見なす人たちが出てきます。彼女は今も自身の作品だと思っていると書いているにもかかわらず、その作品まで否定する動きになったら、さすがに彼女は怒ると思います。「いやいや、その手続きや過程、あるいはその結果について問題にしているのであって、私の作品まで否定しないで」と。

ミロ・モアレのような主体的表現に見えなかった人たちにとってはわかりにくいでしょうが、「KaoRiとアラーキーの件」でもそうなのです。意思なき哀れな女にさせられそうになり、愛着のある作品までが否定されそうになったことに対して、KaoRiは戸惑いました。写真に続いて、自身が時間をかけて書いた文章においても自分の存在、自分の意思はないがしろにされてしまうのかと。

KaoRi(というより生身のカオリン)もチンコが生えている存在として私は認識してきましたから、さすがに「おいおい」と思わないではいられませんでした。

あれもまた既存の文脈を投影して見誤った人たちがいたわけです。「女という文脈」に合致した「脳内KaoRi」の声を現実の彼女より上位に置いてしまった。「アラーキーのミューズ」を現実の彼女より上位に置いてしまった人たちと同じです。

なお、ミロ・モアレのカレンダーの動画タイトルは「THE TWELVE MUSES」です。

 

 

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