松沢呉一のビバノン・ライフ

山田わかは時代を先取りする婦人運動家であった—女言葉の一世紀 131-(松沢呉一) -3,458文字-

強姦された女は妻としての価値がない—女言葉の一世紀 129」の続きです。

 

 

 

山田わかの処世術

 

vivanon_sentence良妻賢母とほとんど変わらなかったにもかかわらず、山田わかは婦人運動家という立場を崩しませんでした。

以下は山田わか著『新輯女性読本』(昭和七年)より。

 

さう云ふ状態(松沢注:女子が男子の奴隷である状態)に対抗して婦人運動が起って以来、何十年かが経過しました。そして、所謂女権論者の家庭的に職業的に人格的に婦人を解放しようとする運動は、幾分か成功しました。けれども、その女権主義の主張する所謂婦人の解放なるものの大部分は、男子の生活の単なる模倣でありましたから、結局、それは、婦人自身のためにも社会のためにも男子のためにも不都合こそ生ずれ決して利益でも幸福でもない。婦人には矢張り女性の特質と女性独特の使命があると云ふ処迄、今日の婦人論は進んで来て、一時はノラにならって、「婦人の人格を無視する夫と家庭を捨てよ」と云ふ叫びに答へて、一旦、家庭を去った婦人達に向って、「婦人よ、家庭に帰れ!」と云ふ言葉が、今日の新進婦人論者の主張になってゐます。

世界の婦人の歩んだ道は幾曲折を経て、結局、婦人は家庭奴隷から、男子と同等な人間となり、それから今度は、「婦人は家庭の文字通りの女王であらねばならぬ、婦人が家庭の女王であり、国民の母であって、その義務に忠実であることによって、婦人自身も男子も子供も幸福、従って人間の幸福であると云ふ処迄今日の婦人論は進んで来て居るのであります(略)

 

 

 

女権論者を乗り越えた婦人運動家が自分なのだと言っているわけです。

サフラジェットに共感し、結婚を「自由を制限するもの」と規定するような「新しい女」は困る(森律子)。無政府主義に走り、一夫一婦制を破壊するような「新しい女」は困る(伊藤野枝)。芸娼妓を肯定し、自らもモダン芸者をやっているような「新しい女」は困る(花園歌子)。

しかし、山田わかは決してそんなことは云わない。女が社会進出することで、自分らの仕事が奪われると恐れる男たちでも受け入れられる。しかも、それは新しい婦人運動であるかのような装いをしているので、古くさい良妻賢母の支持者とは違うのだという満足感さえ得られるわけです。

お見事。

※NO VOTE NO TAX運動の傘。投票権がないのだから税金は払わないという運動。アルジャジーラより。

 

 

時代の先をゆく婦人運動家だった山田わか

 

vivanon_sentence日本でサフラジェットのような活動をしたら、すぐさま弾圧され、場合によっては拷問とでっち上げで団体は解体させられたかもしれない。伊藤野枝のような活動をしたら、虐殺される。そこまでやることは難しかったことは十分に理解できます。私もあの時代に生きていたら、投獄され、虐殺されるリスクのあることができた自信は全然ない。

だからといって、婦人参政権実現の足を引っ張り、女子の高等教育を否定し、民主主義を否定し、女権運動を否定したら、それはただの体制擁護にしかならない。

山田わかはただの体制追従であったことはその言い分の変化からも見てとれます。

 

 

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