「私はピアノ」表現系マゾの呟き—作業用・M男予備3-(松沢呉一)-8,315文字-
このシリーズは文庫の作業用です。「ビバノン」の編集ページに慣れてしまって、ここで文庫用に原稿の手直しをやっており、ついでに一時公開する趣旨です。
通し番号は仮の掲載予定順です。バラバラに出していきますので、通し番号も飛び飛びになります。現段階ではどれを収録するのか決定しておらず、よって再録の許可をまだ得てません。本に収録されないものはそのまま残し、収録するものはその段階で非公開にすることになろうかと思います。そのため、「循環湯」の通し番号は現段階では省略します。カテゴリーのタグも「文庫作業用」のみです。空白にしている部分がありますが、気にしないでください。
連絡がとれる人でもまだ無断ですので、無料公開部分は相手の言葉が始まる前までとします。
表現系マゾ
マゾというと鬱々と内面と向き合っているイメージが強い。事実、内省的な側面があって、鞭打たれながらも、縛られながらも、つねに自身と語り合っているようなところがある。だから、話も面白い。他の性風俗のマニアと言われる人たちに話を聞くと、「どこの店のおねえちゃんはこうだった」という他者を評価する姿勢が中心になろうが、M男さんたちは自分が何者であるのかの問いかけを続けてきているので、他者や社会を組み込んで、自身の中にある欲望を言語化できる。昨今はまた違ってきてようが、古い世代の同性愛者とも近いものを感じる。
しかし、稀な例ながら、最初からマゾという自分を外に開かれたものとして始めている人もいる。露出系の人たちがそうだが、それとはまた出方が違って、ここではそれを表現系マゾとでも呼んでおく。
表現系マゾは、よくよく話を聞かないと、「本当にこの人はMなのか?」「本当にこの人はSMが好きなのか?」と疑わないではいられず、「単なる出たがりではないか」で終わってしまいかねまい。
その典型がタツさんだ。特異な自分のありようには、タツさん自身、気づいている。どんな鈍感な人でも気づかないではいられないだろうが。
(残り 7580文字/全文: 8439文字)
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