松沢呉一のビバノン・ライフ

立川シネマ通りの思い出話—欲情部落を訪ねて[4](最終回)-[ビバノン循環湯 406] (松沢呉一) -3,196文字-

パンパンとオンリーの街・立川—欲情部落を訪ねて[3]」の続きです。今回のシネマ通りでの会話は国立に行った日とも、タクシー運転手にガイドしてもらった日ともさらに別の日だったはず。

 

 

 

シネマ通りの成り立ち

 

vivanon_sentence進駐軍に接収されるまで、陸軍飛行大隊の立川飛行場があって、その正面の通りには軍用車が通っていた。戦後、立川飛行場は米軍のフィンカム基地となり、その通りは米兵が遊ぶ通りに一変した。これがシネマ通りである。

戦後まもなくからストリップ小屋もあり、二十年ほど前から大衆演劇をかける立川大衆劇場となったが、二〇〇八年に閉館。

タクシー運転手はストリップ小屋によく行ったという。

「私は上がったことがないですが、生板ショーや花電車をやっていました」

浅草ロック座や道頓堀劇場の系列ではない場末のストリップ劇場だったよう。

「ヤクザの親分がタダ券をくれるんですよ」

「なんでヤクザの親分が」

そっち方面の仕事をしていたことがあるのか、客としてタクシーに乗せる時にもらったのかと思ったら違っていた。

「私は五六歳の時に喘息でサラリーマンを辞めたんですけど、地元なので立川で飲むじゃないですか。飲み屋で知り合ったヤクザの親分がタダ券をくれたんですよ」

基地がなくなるまでの立川では、米兵がPXで買ったものを譲ってくれるので、タバコや酒を安く入手できて、それを転売したりもしていたらしい。面白い場所だったのだ。

 

 

老人たちの昔話

 

vivanon_sentenceタクシーを降りて辺りを散策する。

シネマ通りの由来となった映画館は現在駐車場になっていて、なぜここがシネマ通りなのかわからなくなっている。それでもシネマ通りには小さなバーやスナックが数軒は残っており、その周辺には、すでに営業はしていないが、米兵相手のキャバレーやクラブだった建物も辛うじて残り、往時の雰囲気をわずかに留めている。しかし、ほんのわずかであって、新しく立川に住み始めた人たちは、この通りが米兵相手の飲み屋街であったことさえ知ることは難しいだろう。

タクシー運転手が言っていたストリップ劇場「立川劇場」はシネマ通りを脇に入ったところにあり、営業はしていないが、建物が今も残っている。そのうちマンションにでもなるんだろうか。

このシネマ通りのピークは戦後から数年間だ。朝鮮戦争以降は米兵も減り、ジェット機に対応して滑走路を北に伸ばそうとして砂川闘争が激化して裁判にもなって計画は頓挫し、基地の主たる機能は横田に移転。これに伴って福生に遊び場も移り、昭和四四年(一九六九)に立川基地は閉鎖され、昭和五二年(一九七七)に全面返還された。そして、現在は昭和記念公園に。

これで米兵の姿は完全に消えて、飲み屋は潰れたり、立川駅の南口に移転したり。現在は歓楽街、飲屋街は南口が担っている。

民家の前に老人がいたので聞いてみたら、シネマ通りは米軍によって急に栄えたわけではなく、戦前は軍の車がひっきりなしに走っていた通りだったため、もともと人通りは多く、栄えている場所だったらしい。しかし、陸軍、そして米軍によって発展したこの通りはほぼ終えつつあって、今は商店街とも言えず、マンションが並ぶただの住宅街になりつつある。

 

 

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